選挙が終わった。民主党が勝った。
まちがいなく歴史に残るだろう鳩山・次期総理大臣は、ワイドショーでもニュースでも、行動を逐一報道されている。大したフィーバーぶりだ。
まあ、夏の間、毎日流されたノリP報道にはケッタクソ悪い思いを抱いていたので、選挙で流れが変わってよかったと思う。
ノリP、いじめすぎだよ。人を殺したわけでも、人のモノを盗ったわけでもない。誰にも迷惑をかけていない彼女をどうしてあそこまでいじめなきゃならんのか。いずれ罪はつぐなうことになるんだから、ほっといてあげればいいじゃないか。
子どもに、「覚醒剤をやるとどうしていけないの?」と問われ、「ダメな人になってしまうからだよ。体もボロボロになってしまうんだ」としか答えられなかった。それがどうして「悪いこと」なのか、説明できなかった。他人に売ったら「悪いこと」だし、「悪いやつ」だけどさ、やるだけで「悪いやつ」といえるのか?
誰かマトモな答えをもっているか? 「ダメな人」になるのは事実だけど、それをやって「ダメな人」になるのは本人なのだから、それこそ自己責任の範疇じゃないのか?
話がそれた。選挙の話をしたいと思っていたんだ。
個人的には、中川昭一元財務相がきっちり落選したのがいちばん印象的だった。
あのとおり苦み走ったイイ男、大臣経験者で親父の地盤を継いでいる。本来なら絶対に負けない人なんだが、ちゃんと負けた。北海道民、わかってるじゃないかと思った。
例の経済サミットでの失態はさすがにひどい。
本人は断酒をして選挙に臨むといっていたけど、断酒したぐらいで禊ぎが済んで、また議員でございますとデカイ顔できるなんて、あまりに「罰」が軽すぎないか? ノリPは毎日いじめられてるのに!
きちんと機能してるじゃないか民主主義、と思った次第である。たぶん、毎晩ヤケ酒かっくらってるだろうね中川さんは。
今回の選挙に関して、当然のこといろんな批評が出てるけど、いちばん腹が立ったのは田原総一郎のコメントだった。
選挙結果を見て、「日本人はバカなんじゃないか」とかいいやがった。要は、郵政選挙における自民党の勝ちすぎでも学習せず、今回も民主党がバカ勝ちした。一辺倒になりすぎる日本人の性癖が出てる、っていうんだ。
同様のことは、言葉こそやわらかくなっているけど、このコラムでもいっている。
バカはおまえだ、といいたいね。
選挙は秘密投票、誰がどこに投票したかわからないのが原則だ。今回だって、みんなが示し合わせて民主党を選んだわけじゃないんだよ。個人の票を総合したら、結果としてそうなっちゃたんだ。
たしかに「勝ちすぎ」とはみんな思ってるだろうけど、それは小選挙区比例代表制という選挙システムのせいであって、日本人の性質のせいじゃない。選挙でちょうどよく、いい案配に票を分配するなんてことは、誰もできないんだよ。示し合わせて投票なんか、できないんだから!
田原総一郎さんは立派なジャーナリストだと思っているし、尊敬もしているけれど、ときどきこういう「誰にも、どうしようもできないこと」を「日本人」という一人格でまとめて、責任をおっかぶせようとする。
よくないところだと思うんだけど、治らないんだろうな、たぶん死ぬまで。
2008年9月12日
もはや「やりすぎ」ではない
「やりすぎコージー」が“月9革命”を起こす!? 過激な深夜番組がまさかのゴールデン進出!
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20080911-00000011-the_tv-ent
これって、たぶん喜ぶべきことなんだろう。
番組制作スタッフとしては。
でも、俺がこの番組を好きだったのは、ふだんは炊き出しに並んでる芸人とか、屁を何十発も連続で放つのが「芸」の芸人とか、どう考えてもあっちの世界に行っちゃっていて、もはや「芸」ですらない芸をやる芸人とか、そういうやつらが出てくるから好きだったんだ。
言い換えれば、芸の世界の闇。
「華」しか映らないはずのテレビに、真っ黒い闇がのぞく。
笑えないどころか、凍りつくことも多かったが、それでも、好きだった。
コージたちのトークも、深夜だと割り切って好き勝手なこと話すから面白かった。
風俗で豪遊した話、股間にケジラミを発見した話。腹抱えて笑った。
そういうのも、もう出ないだろう。
月9版も、たぶん2~3回は見てやるだろう。
でも、それでつまんなかったらもう見てやんないかんな!!!
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20080911-00000011-the_tv-ent
これって、たぶん喜ぶべきことなんだろう。
番組制作スタッフとしては。
でも、俺がこの番組を好きだったのは、ふだんは炊き出しに並んでる芸人とか、屁を何十発も連続で放つのが「芸」の芸人とか、どう考えてもあっちの世界に行っちゃっていて、もはや「芸」ですらない芸をやる芸人とか、そういうやつらが出てくるから好きだったんだ。
言い換えれば、芸の世界の闇。
「華」しか映らないはずのテレビに、真っ黒い闇がのぞく。
笑えないどころか、凍りつくことも多かったが、それでも、好きだった。
コージたちのトークも、深夜だと割り切って好き勝手なこと話すから面白かった。
風俗で豪遊した話、股間にケジラミを発見した話。腹抱えて笑った。
そういうのも、もう出ないだろう。
月9版も、たぶん2~3回は見てやるだろう。
でも、それでつまんなかったらもう見てやんないかんな!!!
2007年12月8日
ソクーロフ『太陽』を観る

ソクーロフの映画『太陽』をようやく見た。
takebow師匠のブログで紹介されていたときから気になっていたんだけど、なにぶんにも映画館は得意じゃない。見たい見たいと思いつつ、ついつい見そびれてしまった。
これは見る機会を逸してしまったかな、と思っていたら、しっかりDVDソフトが発売されたし、レンタル店にも話題作として入荷した。むろん、「外国映画だから」ということもあるんだろうが、たぶん昭和天皇が「歴史」になったということも大きいんだろう。
見ながら、ぼんやりとベルトリッチの『ラストエンペラー』を思い出していた。あれは歴史の波をもろにひっかぶって庭師として人生を終えた皇帝の物語だった。だが、エンペラー・ヒロヒトはついに「ふつうの人」になることはなかった。
中国の歴代皇帝の中には、皇帝として生まれながらも、「ふつうの人」として人生を終えた人はたくさんいる。しかし、日本の天皇の中にはそんな人はいない。万世一系、なんて眉唾くさいことを言うつもりはないが、皇室というのはやはり唯一無二なのだ。そんなことを今更ながらに思ったりした。
ソクーロフ監督についてはよく知らないが、生物学者でもあったエンペラー・ヒロヒトの内面を、じつに見事にフィルムに収めていたと思う。ことに、帝都空襲の描き方は見事だった。
エンペラーは帝都に住んでいながら、帝都の惨状を見てはいないのである。爆撃の音は聞いていても、被害にはあっていない(皇居は爆撃されなかった)。だから、空襲は彼の頭の中にしかないのである。
ソクーロフはそれを、空を泳ぐ巨大な魚と燃える街のイメージで、見事に描き出していた。あれがリアルなB29の編隊だったなら、映画は一気に安っぽくなってしまっただろう。限られた予算でも、美しい映画はつくれるのだ。大いに感動させられた。
エンペラーを演じたイッセー尾形は、一世一代の名演をしている。たぶん、あれほどまでにエンペラーその人に肉迫することができる俳優は、(さまざまな制約のせいもあって)二度と現れないだろう。彼は得意の形態模写を駆使して、エンペラーの苦悩も不幸も神々しさ(と、言っていいと思う)も、みごとに表現していた。
エンペラーも草葉の陰でお喜びになっているのではないか。あれほどの表現力を持つ俳優は、世界に二人といるまい。まさしく日本の宝である。
エンペラー・ヒロヒトには個人的に興味があって、いろいろ本を読んだりしたこともある。それゆえ、なのかもしれないが、くりかえし見たくなるような、本当にいい映画だったと思う。
ソクーロフ『太陽』インタビュー
http://www.cinematopics.com/cinema/topics/topics.php?number=877
http://www.sbbit.jp/article/art.asp?newsid=2062
2007年11月20日
恋する中年

ヒッチコックの「めまい」を見た。
なんで今頃そんなもんを見てるんだ、と問われると答えに窮するけれど、要は好きなんですよヒッチコック映画が。
ヒッチコック映画ぐらい、カウチポテトに向いてるものはそうそうないと思うんです。……な~んて言うと、世の映画ファンに袋叩きにされるだろうな。いいんだよ、私にとってのヒッチコックは、ずっとそういうものだった。
なんとなく退屈するとレンタル・ショップでヒッチコックを借りてきて見る。最低でも年に3作は見てるだろう。当然、同じものを何度も見たりしている。いちばん多いのはたぶん「レベッカ」、次いで「バルカン超特急」だろうか。
でも、「めまい」を見るのは2度目である。たぶん15年ぶりぐらい。最初に見たときの印象も悪くなかったんだけど、それからもう一度見ようという気にはなかなかならなかった。どうしてなのか理由は判然としないが、たぶん、現在の目で見るとあまりに陳腐な例の総天然色アニメーションの印象が強かったんだろうな。はじめて見たときは力が抜けたもんなー。
しかし、しかしである。
今回見た「めまい」は本当に素晴らしかった。ヒッチコックってすげえなあ、と久々に思ってしまった。
知ってる人も多いと思うけれど、この映画、二部構成になっている。前半はヒッチコックお得意のサスペンス/スリラー。幽霊に取り憑かれた女(キム・ノヴァク)を、探偵役の元刑事(ジェームス・スチュアート)が追う。女は不幸な死に方をしたスペイン系移民の女性に憑依されていて、不可思議な行動をとる。しかも、その間の記憶がまったくない。
とぎれとぎれの記憶、夢で見た場所……そんな白昼夢のような光景を、ヒッチコックはまるで前衛絵画のようなカメラアングルを駆使して描き出していく。色彩や光の加減も細部まで計算しつくされている。まず、これに圧倒された。「めまい」ってやっぱすげえんだ、と再認識してしまった。
後半は前半のタネ明かしと、主役の男女の恋愛劇を主軸としている。ハッキリ言って、トリックのネタそのものは大したもんじゃない。だからミステリーとして見れば肩すかしを食らってしまうが、「めまい」がほんとに凄くなるのは後半の方である。前半では健常だったはずの元刑事が、どんどん常軌を逸してくる。サスペンスを喚起する主体が、前半は女だったのが、男の方に移っているのだ。前半で幽霊ネタを使ってさんざん煽っていた不安が、ここにきて効果を現してくる。幽霊なんざいない現実の方が、ずっと不安なのである。
男が異様さを増していくのは、彼が恋をしているからだ。
中年男の恋は、偏執的である。マトモじゃないのだ。その異様さ・みっともなさ・どうしようもなさ。それだけでもじゅうぶん異常なのに、ヒッチコックはそこに怒りと復讐心と嫉妬を加えてみせる。凄惨、ここにきわまれりである。そして、とってつけたような幕切れ。2時間の美しき悪夢は、とつぜん、鐘の音とともに終わりを告げる。
15年前には、わからなかった。むろん、楽しむことはできたんだけど、中年男のキチガイじみた恋愛の凄まじさには、理解が及ばなかった。それを理解するには若すぎたのだ。
オッサンになんないとわかんないもんって、やっぱりあるんだよな。
2007年6月18日
その後のホークス・ファン

以前ここで「今年はソフトバンクを応援します宣言」をおこないましたが、その後どうなったかというと、にわかホークス・ファンを地味~に続けているのです。
昨日・一昨日は巨人戦だったため、ホークスの試合が二夜連続地上波テレビ放映されていました。むろん、見ましたとも。結果は惜しくも連敗でしたが、両日ともいいゲームでした。
私が応援してるせいなのかどうだか、先月には首位を走っていたホークスは現在3位。首位ロッテに6ゲーム差をつけられています。どうやら、投手陣の好調を打線がバックアップできず負けている試合が多いようです。
一昨日は杉内の好投が光っていましたし、昨晩は4人の投手の継投がうまくいって、9回まで巨人打線を1点に抑えていました。じっさい、投手はみなじつによくふんばっている。
ところが、打者がふるわない。主砲松中の故障がでかいのでしょうけど。松中は昨日、8回裏一死満塁の好機に代打で起用され、球場はむろん大歓声、テレビの前のよい子も手に汗握って応援しましたが、残念ながら快音は聞けずじまいでした。
王監督も嘆いていましたが、この満塁、ノーアウト満塁ではじまったにも関わらず、松中をふくめ三人の打者が連続三振に終わっています。いかに巨人の中継ぎ・豊田が見事なピッチングを見せたとはいえ、お粗末な攻撃でした。
もっとも、私が注視しているのは選手ではなく、ベンチの王です。ガリガリに痩せ、およそ元野球選手とは思えぬ体格になり果てた「世界の王」は、それでもまだ猛禽類みたいな「あの目」を失っていません。
歯に衣を着せず見たままを言えば、今の王は完全な爺さんです。「ヨボヨボ」とまでは言いませんが、その予備軍であることは間違いない。みごとな体格をもつ選手たちが王のまえで頭を垂れている風景は、病を押して出陣した老大名が血気さかんな荒くれ武者にあれこれ指示を出しているようで、一種のシュールささえ感じさせる風景です。
あの人の下で働く選手は相当なプレッシャーがあるだろうな、と思います。昨日のゲームを見ていても感じましたが、「あの目」は王にはあって原にはないものです。あんな目で眺められたら、不甲斐ないプレイをした選手は相当こたえるものがあるんじゃないかと思います。
昨年の闘病で胃を摘出してしまいましたから、今の王には食欲がありません。奥さんを亡くして久しいですが浮いた話もないので、たぶん性欲もないと思われます。そんな人間として当然の、健全な欲望を失ってしまった老人が、勝負師としての「勝ちたい」欲だけはまだ濃厚に持っているというのは、ある種、凄絶なものがあると思います。
昨晩のゲームが終わっての王の感想。
「今日で69試合か。残り、半分以上ある。どうなっているから勝てないのか、はっきり分かったわけだから、明後日からそれを克服すればいい」
いいこと言いますよね、王さん。残り69試合、にわかファンとしてしっかりフォローしていきたいと思っています。
ところで、2005年から実施されはじめたセ・パ交流戦ですが、いいシステムですよね。やる方は大変なのかもしれないけど。巨人戦はたいがい地上波中継されますから、パの球団にも順繰りにスポットが当たります。これは、交流戦実施以前はなかったことです。
笑い飯の昔のネタで、「日本ハムのキャッチャーはマスクを何枚もつけている」というのがありましたが、そんなギャグが通用しちゃうのも、パリーグのBクラス球団の試合なんか誰も見たことがなかったからです。でも、今はさすがに、ギャグとして通用しないでしょう。むろん、日ハムがすごく強いチームになったというのも大きいですが、交流戦のおかげで、パリーグのチームの活躍を目にする機会も増えましたから。
2007年5月15日
王貞治、あなたは偉大だった
王貞治ってすげえなあ、とあらためて思った。
何を言う、世界の王だぞ、すごいのは当たり前じゃないか、と言われてしまうかもしれない。いや、すごいのは知ってたさ。世界一のホームラン・バッターだってことは当然、知ってた。でも、そのすごさにはじめて納得がいったんだ。
王は、中国人の父と、日本人の母との間に生まれている。したがって、国籍は中国である。日本国民ではないのだ。日本の国民栄誉賞第一号にもかかわらず、選挙権も被選挙権も持ってないのである。これはけっこう、すごいと思う。王は、日本・中華民国・中華人民共和国、3つの国の狭間で生きている男なのだ。
一説によれば、彼が北京オリンピック日本代表の監督を辞退したのは、中華民国と中華人民共和国の微妙な関係があるから、というのが理由のひとつとしてあるらしい。
実家は、ラーメン屋である。現役時代には、「ラーメン屋の倅」と陰口を叩かれたらしい。
高校時代は、早稲田実業の投手として選抜優勝。ノーヒットノーランを達成している。個人的には、この事実にいちばん、驚いた。いや、知識としては前から知っていたんだけど、そのとんでもなさにはじめて気づいたのである。
ノーヒットノーランをやって甲子園で優勝した投手が、フラミンゴ打法で868本ホームランなんだよ? 現代でいえば、ハンカチ君がホームラン王になるようなもんだ。どう考えたってすごいだろう。
監督としては、万年最下位のホークスを常勝球団にまで育てあげている。そして、昨年のWBCで監督としても「世界の王」となった。これもすごい。
たったひとりの人間が、これだけ記録を持っているって、他にないだろう。すくなくとも俺は、王以外に思い浮かばない。あ、ひとつだけあった。ビートルズだ。ひとりじゃないけどね。
王はすげえぞ、と思ったから、一冊ぐらい伝記を読んでみようと思って、書店に行った。野球の本を買うのは、小学校のときに買った野球入門(王と田淵が表紙だった)以来のことである。
行ってみて、驚いた。長嶋の本はいっぱいあるのに、王の本は一冊しかないのである。言っとくけど、俺が行ったのはそこらの本屋じゃないぜ。日本最大の書店、ジュンク堂本店だぜ。
王が長嶋に比べ、キャラ立ちしてないというのはよくわかる。マジメな優等生の王は、キャラとして今ひとつ面白くない。話も浮いたところがない。でもさ、誰が考えたって長嶋より王の方がずっと偉いじゃないか、打者としても監督しても。どうなってんだ、日本の野球ジャーナリズムは。
選択の余地がないんだから、その一冊しかない本を買ってきて、読んだ。江尻良文の『王貞治 壮絶なる闘い』という本である。おかげで、王に関してはずいぶん詳しくなった。
胃の摘出手術をした現在の王は、昔の美男子ぶりはどこへやら、ガリガリの亡者みたいになっている。それでも、監督を続けるのである。なんでも、監督としてソフトバンク・ホークスを優勝させ、勇退したいと考えているとか。監督兼ゼネラル・マネージャー(早い話が、球団経営者として、すべての人事権を持っている監督。日本では王がはじめて)にまで引き立ててくれた孫正義にたいして、彼は大いに恩義を感じているらしいのだ。後任ももう決めている。自分が手塩にかけて育てた秋山である。執念だよな、これは。どこまで偉いんだよ王。
というわけで、今年はホークスを応援します。ちなみに、特定の球団を応援するのははじめてです。王語録も毎日読むぜ。
なお、私がにわか王ファン・ホークスファンとなったのは、youtubeで下記のビデオを見たせいである。これがまた、感動的なんだ。中華屋で酔っぱらいながら偉そうにしゃべる王もすごくいい。
1999 FUKUOKA HAWKS ZONE
http://www.youtube.com/watch?v=qlFZ6rK_H9g
2007年3月22日
きばれよ、笑い飯
笑い飯のトランジスタラジオくんが来週で終わるらしい。
私は深夜ラジオを聞く習慣がないので、ラジオ本編の方は聞いたことがないのだが、それとは別に毎週ポッドキャストで配信される放送はいつも楽しみにしていた。

たぶん終了は本人たちが望んだことではないだろう。昨年のM1でイマイチふるわなかったことが、影を落としているのだろうな。放送の内容も(あくまでポッドキャストだけで判断するしかないが)、だんだん面白味がなくなっていったように思う。
以前は「世界の国」という、国名を毎週アイウエオ順にあげていって、その国に関してあることないこと好き勝手しゃべる、というネタをやっていて、これはすごく面白かったのだけど、それが終わったあたりから、次第にトーンダウンしたようなイメージがある。baseよしもとに出演しているマイジャー芸人のゲストを呼んで、楽屋オチみたいなネタを話すのは、本人たちは楽しいかもしれないが、リスナーとしては決して楽しいものではなかった。
彼らの漫才ネタは時事ネタとか一切なくて、老若男女すべてが笑える一般性を持っているのだけど(そのあたり、『エンタの神様』に出演している芸人未満どもとは雲泥の差がある)、ことラジオに関しては、そういう一般性を意識できていなかったのではないか。吉本の若手芸人がカルトな人気を持っていて、そういう人たちばかり注目するお笑いファンもいるのは知っているけれど、そうしたカルト・ファンにしかアピールしない放送内容は、やはり退屈というほかなかった。
深夜ラジオこそ聞いていなかったけれど、私はきわめて熱心な彼らのファンである。Youtubeにあがったネタは全部ダウンロードして保存してあるし、テレビ出演はこまめにチェックして欠かさず見ている。だが、ここんとこテレビで見る彼らのネタは、今ひとつ精彩に欠けているような気がしてならない。先週放映された『爆笑レッドカーペット』はなかなかふるっていて、久々に溜飲を下げたけれども、正月以降放映された漫才番組でのネタは、「うーん……」なものが多かった。いや、面白いんだけどね、でも笑い飯ならもっとさあ……と感じてしまうような。ひょっとすると、スランプなのではなかろうか、と心配してしまう。
ダブルボケ/ダブルツッコミという彼らのスタイルの爆発力は、とんでもないものがある。「奈良県立歴史民族博物館」や「ワシントン」などのネタは、何度見ても笑える。もう100回ぐらい見てると思うのだが、飽きるということがないのだ。「くだらないこと」「しょうもないこと」にたいする彼らの観察眼の鋭さと、独特のリズム感に笑わされてしまうのだろう。
バラエティとかイケるタイプでもないし、ここから一皮むけるのはたぶん、苦労するだろう。それは本人たちがいちばん感じているはずだ。切磋琢磨して新ネタをつくり、なんとか突破口を開いて欲しい。それができるだけの力は間違いなくあるんだから。俺はもっと笑い飯をテレビで見たいんだよ。
私は深夜ラジオを聞く習慣がないので、ラジオ本編の方は聞いたことがないのだが、それとは別に毎週ポッドキャストで配信される放送はいつも楽しみにしていた。

たぶん終了は本人たちが望んだことではないだろう。昨年のM1でイマイチふるわなかったことが、影を落としているのだろうな。放送の内容も(あくまでポッドキャストだけで判断するしかないが)、だんだん面白味がなくなっていったように思う。
以前は「世界の国」という、国名を毎週アイウエオ順にあげていって、その国に関してあることないこと好き勝手しゃべる、というネタをやっていて、これはすごく面白かったのだけど、それが終わったあたりから、次第にトーンダウンしたようなイメージがある。baseよしもとに出演しているマイジャー芸人のゲストを呼んで、楽屋オチみたいなネタを話すのは、本人たちは楽しいかもしれないが、リスナーとしては決して楽しいものではなかった。
彼らの漫才ネタは時事ネタとか一切なくて、老若男女すべてが笑える一般性を持っているのだけど(そのあたり、『エンタの神様』に出演している芸人未満どもとは雲泥の差がある)、ことラジオに関しては、そういう一般性を意識できていなかったのではないか。吉本の若手芸人がカルトな人気を持っていて、そういう人たちばかり注目するお笑いファンもいるのは知っているけれど、そうしたカルト・ファンにしかアピールしない放送内容は、やはり退屈というほかなかった。
深夜ラジオこそ聞いていなかったけれど、私はきわめて熱心な彼らのファンである。Youtubeにあがったネタは全部ダウンロードして保存してあるし、テレビ出演はこまめにチェックして欠かさず見ている。だが、ここんとこテレビで見る彼らのネタは、今ひとつ精彩に欠けているような気がしてならない。先週放映された『爆笑レッドカーペット』はなかなかふるっていて、久々に溜飲を下げたけれども、正月以降放映された漫才番組でのネタは、「うーん……」なものが多かった。いや、面白いんだけどね、でも笑い飯ならもっとさあ……と感じてしまうような。ひょっとすると、スランプなのではなかろうか、と心配してしまう。
ダブルボケ/ダブルツッコミという彼らのスタイルの爆発力は、とんでもないものがある。「奈良県立歴史民族博物館」や「ワシントン」などのネタは、何度見ても笑える。もう100回ぐらい見てると思うのだが、飽きるということがないのだ。「くだらないこと」「しょうもないこと」にたいする彼らの観察眼の鋭さと、独特のリズム感に笑わされてしまうのだろう。
バラエティとかイケるタイプでもないし、ここから一皮むけるのはたぶん、苦労するだろう。それは本人たちがいちばん感じているはずだ。切磋琢磨して新ネタをつくり、なんとか突破口を開いて欲しい。それができるだけの力は間違いなくあるんだから。俺はもっと笑い飯をテレビで見たいんだよ。
2007年1月1日
コロンボ・ファンのつぶやき
毎年、年の瀬になると、深夜『刑事コロンボ』がテレビ放映される。
したがって、コロンボ・ファンは毎年、正月番組に興味がなくても、テレビ番組表を目を皿のようにして眺めなければならないのである。
最近はネットでテレビ番組表が検索できるから、簡単に放映日時を知ることができる。また、mixiのコミュニティとかで、同好の士が放映を知らせてくれる。便利な時代になったもんである。
『刑事コロンボ』には、大きくわけてふたつのシリーズがある。
ひとつは、70年代に制作されたシリーズ。これが全部で45作ある。もうひとつは、89年から断続的に制作されている『新・刑事コロンボ』のシリーズで、目下23作ある。
70年代の方は、現在は視聴がきわめて容易である。全話収録のDVDボックスが市販されているし、レンタル・ショップにはたいがい、全巻揃っている。あのスピルバーグの監督作『構想の死角』をふくめ、傑作の多いシリーズで、なんとなく元気がないときには、見ることにしている。不思議なもんで、ピーター・フォークの顔を見てると癒されるのである。子どもの頃から好きだったからかもしれない。
厄介なのが、新シリーズの方だ。昔はVHSが数点リリースされていたようだが、DVD化は未だ、成されていない。
まあ、気持ちはわかる。新シリーズはファンである私が見ても首をかしげたくなるような趣向のものが多いし、ピーター・フォークはオッサンを通り越してすっかり爺さんである。ソフト化しても売れるとは思えない。
そうするというと、新シリーズを視聴するためには、地道にテレビ放映を待つほかはない、ということになってくるのである。
とはいえ、所詮、深夜の映画ワクなんか、テレビ局も穴埋め程度にしか考えていない。すべてのストーリーをまんべんなく放映してくれたりしないのである。同じ話を何度も放映するわりに、いっこうに放映されない話があったりする。昔見てもう一度見たいストーリーや、まだ見たことのないストーリーが沢山あるんだけど、なかなかやらないんだよね、これが。
さて、去年の大晦日、正確には日付が変わって今年になった時間に、新シリーズの1本『殺意のナイトクラブ』が放映された。
目下のところ、シリーズ最新作である。制作は2003年。前述のとおり、すっかり爺さんになったピーター・フォークが、なんとレイヴ・パーティーの主催者を追い詰めるというストーリーであった。BGMもテクノである。時代ですなあ。
コロンボ・シリーズは、例の「ウチのカミさんが……」というセリフに見られるがごとく、吹き替えの妙がウリのひとつだったりするのだけれど、今回は字幕での放映。そのあたりにこのシリーズに吹きすさぶ冷たい風を感じたりもしたけれど、若い脚本家/監督が手がけた作品らしく、きわめて現代的でスピーディーな倒叙ミステリーを堪能することができた。新シリーズの中では、かなり出来のいい部類に属するのではないだろうか。
で、何が言いたいかというと、「テレビ局さん、『新・刑事コロンボ』放映してください」に尽きる。
まあ、こんなところで訴えたところで届かないでしょうけど……。
したがって、コロンボ・ファンは毎年、正月番組に興味がなくても、テレビ番組表を目を皿のようにして眺めなければならないのである。
最近はネットでテレビ番組表が検索できるから、簡単に放映日時を知ることができる。また、mixiのコミュニティとかで、同好の士が放映を知らせてくれる。便利な時代になったもんである。
『刑事コロンボ』には、大きくわけてふたつのシリーズがある。
ひとつは、70年代に制作されたシリーズ。これが全部で45作ある。もうひとつは、89年から断続的に制作されている『新・刑事コロンボ』のシリーズで、目下23作ある。
厄介なのが、新シリーズの方だ。昔はVHSが数点リリースされていたようだが、DVD化は未だ、成されていない。
まあ、気持ちはわかる。新シリーズはファンである私が見ても首をかしげたくなるような趣向のものが多いし、ピーター・フォークはオッサンを通り越してすっかり爺さんである。ソフト化しても売れるとは思えない。
そうするというと、新シリーズを視聴するためには、地道にテレビ放映を待つほかはない、ということになってくるのである。
とはいえ、所詮、深夜の映画ワクなんか、テレビ局も穴埋め程度にしか考えていない。すべてのストーリーをまんべんなく放映してくれたりしないのである。同じ話を何度も放映するわりに、いっこうに放映されない話があったりする。昔見てもう一度見たいストーリーや、まだ見たことのないストーリーが沢山あるんだけど、なかなかやらないんだよね、これが。
さて、去年の大晦日、正確には日付が変わって今年になった時間に、新シリーズの1本『殺意のナイトクラブ』が放映された。
目下のところ、シリーズ最新作である。制作は2003年。前述のとおり、すっかり爺さんになったピーター・フォークが、なんとレイヴ・パーティーの主催者を追い詰めるというストーリーであった。BGMもテクノである。時代ですなあ。
コロンボ・シリーズは、例の「ウチのカミさんが……」というセリフに見られるがごとく、吹き替えの妙がウリのひとつだったりするのだけれど、今回は字幕での放映。そのあたりにこのシリーズに吹きすさぶ冷たい風を感じたりもしたけれど、若い脚本家/監督が手がけた作品らしく、きわめて現代的でスピーディーな倒叙ミステリーを堪能することができた。新シリーズの中では、かなり出来のいい部類に属するのではないだろうか。
で、何が言いたいかというと、「テレビ局さん、『新・刑事コロンボ』放映してください」に尽きる。
まあ、こんなところで訴えたところで届かないでしょうけど……。
2006年11月24日
カウチポテト・デイズ(映画印象記)
ここのところ、DVDでけっこう映画を見ている。
せっかく見たのだから、印象ぐらい書きつけておこう。
『天使にラブソングを2』(1993年)
最初の作品を見ていないにもかかわらず、故あって続編を見ることに。音楽映画の決め手は所詮音楽に尽きるので、その点ではまずまずの作品だった。ティーンエイジのローリン・ヒルがとても可愛かった。年代調べてみたら、フージーズでデビューする前の作品なんだね。
『レイ/Ray』(2004年)
レイ・チャールズの伝記映画。公開時からいいという話はほうぼうで聞いていて、親切にも絶対に見ろとまで言ってくださる方もいたのだが、結局見られなかった作品。今頃になって見てますよ、はい。
評判どおりの作品であったとは思うけれど、それほどのめり込めなかったのは、レイ・チャールズの音楽にあまり馴染みがなかったせいかもしれない。ソウル・ミュージックは大好きなのだけど、レイ・チャールズの音楽はあんまり好きになれなかったのである。たぶんそのせいだろう、同じソウル・シンガーの伝記映画でも『ティナ』の方が興奮したなあ。アイク&ティナ・ターナー、大好きです……ってこれは『レイ』の感想でもなんでもないな。
感心したのは、レイ・チャールズが最初に加入したドサ回りバンドは、「バンド」というよりは見せ物小屋に近いものであったこと。あらゆるシンガーのモノマネを器用にこなす盲人は、バンドの司会者をつとめていた小人と同様、存在そのものが見せ物だったのだ。そのあたりをしっかり描いているのが立派だと思った。日本で同じことをやるのはたぶん、無理だろう。あえて差別表現に踏み込むことで、身体障害者がもつハンディキャップをしっかり描くことに成功している。このシーンを作品の序盤にもってきた監督の英断と、この表現を許可したレイ・チャールズ本人(撮影中は存命だった)の懐の深さに脱帽する。
『アビエイター』(2004年)
こちらはハワード・ヒューズの伝記映画。ちと尺が長すぎかな、とは思ったけれど、じゅうぶんに楽しめた。ディカプリオは決して好きな役者ではなく、演技に感心したこともあまりなかったんだけど、この作品で認識を改めた。いい役者さんになったなあ。四面楚歌の状況と神経症のために引き籠もりとなり、狂気に陥っていくヒューズの演技には、大いに感動した。演出のよさもむろんあると思うけれど、大根役者じゃ絶対に演じることができない内面表現を、ディカプリオは十二分にこなしていた。
マーティン・スコセッシは「アメリカ」にどこまでもこだわっている演出家だと思う。彼は反骨の人を描くことが多いけれど、そこにアメリカにたいする愛憎が見え隠れする。
『アルフィー』(2004年)
これも2004年の映画だけど、『レイ』や『アビエイター』とは異なり、ほとんど話題にならなかった作品。ミック・ジャガーがサウンドトラックを担当していなければ、見なかっただろう。
ソニー・ロリンズのサントラでも有名な60年代の映画のリメイクで、プレイボーイの悲哀を描いている。主演のジュード・ロウはじつにカッコよかった。
ミックの手になるサウンドトラックは気に入っていて、オリジナル・ソロ4作目の『ガッデス・イン・ザ・ドアウェイ』よりずっとよく聴いたのだが、果たして映像に合っていたか? と問われると首をかしげざるを得ない。映画のBGMにするには、ミックの声はアクが強すぎるんだよな。一応、映像に合わせて楽曲をつくったらしいんだが。
『子ぎつねヘレン』(2006年)
目が見えず耳が聞こえないキツネを拾った少年の成長とそれを取り巻く人々を描く。早い話が、お涙頂戴を意図してつくられた映画である。
お涙頂戴、嫌いではない。動物映画も同様である。だが、これはいただけなかった。たぶん、脚本がよくないんじゃないかと思う。どこで泣かせたいのかがわからない。
目と耳が不自由なキツネ、というテーマはそれだけでとても可哀想なわけだが、人間とちがってキツネは「見えない」「聞こえない」をアピールできない。それを物語るのが獣医役の大沢たかおのセリフだけというのがいかにも説得力不足。おかげで、キツネがなんで衰弱していくのかも、なんで死ななければならないのかも、今イチよくわからなかった。理由がわからなきゃ泣けないでしょう、さすがに。
映画を見ながら、「お涙頂戴の動物映画はハズレがないからスポンサーがつきやすい」という話をどこかで読んだことを思い出した。その連想から、『リチャードホール』でアンタッチャブルがやってた『パンダプロデューサー』というコントを思い出してしまい、ますます泣けなかった。
パンダプロデューサーは「動物出しとけば視聴率かせげるんだから、動物出せばいいのよ!」と言って動物の奇妙な生態についてウンチクたれて、ひとりで笑う鼻つまみ者のプロデューサーだが、ひょっとして、この映画のプロデューサーも同じようなものだったんじゃないか、という気がして仕方がない。
せっかく見たのだから、印象ぐらい書きつけておこう。
『天使にラブソングを2』(1993年)
最初の作品を見ていないにもかかわらず、故あって続編を見ることに。音楽映画の決め手は所詮音楽に尽きるので、その点ではまずまずの作品だった。ティーンエイジのローリン・ヒルがとても可愛かった。年代調べてみたら、フージーズでデビューする前の作品なんだね。
『レイ/Ray』(2004年)
レイ・チャールズの伝記映画。公開時からいいという話はほうぼうで聞いていて、親切にも絶対に見ろとまで言ってくださる方もいたのだが、結局見られなかった作品。今頃になって見てますよ、はい。
評判どおりの作品であったとは思うけれど、それほどのめり込めなかったのは、レイ・チャールズの音楽にあまり馴染みがなかったせいかもしれない。ソウル・ミュージックは大好きなのだけど、レイ・チャールズの音楽はあんまり好きになれなかったのである。たぶんそのせいだろう、同じソウル・シンガーの伝記映画でも『ティナ』の方が興奮したなあ。アイク&ティナ・ターナー、大好きです……ってこれは『レイ』の感想でもなんでもないな。
感心したのは、レイ・チャールズが最初に加入したドサ回りバンドは、「バンド」というよりは見せ物小屋に近いものであったこと。あらゆるシンガーのモノマネを器用にこなす盲人は、バンドの司会者をつとめていた小人と同様、存在そのものが見せ物だったのだ。そのあたりをしっかり描いているのが立派だと思った。日本で同じことをやるのはたぶん、無理だろう。あえて差別表現に踏み込むことで、身体障害者がもつハンディキャップをしっかり描くことに成功している。このシーンを作品の序盤にもってきた監督の英断と、この表現を許可したレイ・チャールズ本人(撮影中は存命だった)の懐の深さに脱帽する。
『アビエイター』(2004年)
こちらはハワード・ヒューズの伝記映画。ちと尺が長すぎかな、とは思ったけれど、じゅうぶんに楽しめた。ディカプリオは決して好きな役者ではなく、演技に感心したこともあまりなかったんだけど、この作品で認識を改めた。いい役者さんになったなあ。四面楚歌の状況と神経症のために引き籠もりとなり、狂気に陥っていくヒューズの演技には、大いに感動した。演出のよさもむろんあると思うけれど、大根役者じゃ絶対に演じることができない内面表現を、ディカプリオは十二分にこなしていた。
マーティン・スコセッシは「アメリカ」にどこまでもこだわっている演出家だと思う。彼は反骨の人を描くことが多いけれど、そこにアメリカにたいする愛憎が見え隠れする。
『アルフィー』(2004年)
これも2004年の映画だけど、『レイ』や『アビエイター』とは異なり、ほとんど話題にならなかった作品。ミック・ジャガーがサウンドトラックを担当していなければ、見なかっただろう。
ソニー・ロリンズのサントラでも有名な60年代の映画のリメイクで、プレイボーイの悲哀を描いている。主演のジュード・ロウはじつにカッコよかった。
ミックの手になるサウンドトラックは気に入っていて、オリジナル・ソロ4作目の『ガッデス・イン・ザ・ドアウェイ』よりずっとよく聴いたのだが、果たして映像に合っていたか? と問われると首をかしげざるを得ない。映画のBGMにするには、ミックの声はアクが強すぎるんだよな。一応、映像に合わせて楽曲をつくったらしいんだが。
『子ぎつねヘレン』(2006年)
目が見えず耳が聞こえないキツネを拾った少年の成長とそれを取り巻く人々を描く。早い話が、お涙頂戴を意図してつくられた映画である。
お涙頂戴、嫌いではない。動物映画も同様である。だが、これはいただけなかった。たぶん、脚本がよくないんじゃないかと思う。どこで泣かせたいのかがわからない。
目と耳が不自由なキツネ、というテーマはそれだけでとても可哀想なわけだが、人間とちがってキツネは「見えない」「聞こえない」をアピールできない。それを物語るのが獣医役の大沢たかおのセリフだけというのがいかにも説得力不足。おかげで、キツネがなんで衰弱していくのかも、なんで死ななければならないのかも、今イチよくわからなかった。理由がわからなきゃ泣けないでしょう、さすがに。
映画を見ながら、「お涙頂戴の動物映画はハズレがないからスポンサーがつきやすい」という話をどこかで読んだことを思い出した。その連想から、『リチャードホール』でアンタッチャブルがやってた『パンダプロデューサー』というコントを思い出してしまい、ますます泣けなかった。
パンダプロデューサーは「動物出しとけば視聴率かせげるんだから、動物出せばいいのよ!」と言って動物の奇妙な生態についてウンチクたれて、ひとりで笑う鼻つまみ者のプロデューサーだが、ひょっとして、この映画のプロデューサーも同じようなものだったんじゃないか、という気がして仕方がない。
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