選挙が終わった。民主党が勝った。
まちがいなく歴史に残るだろう鳩山・次期総理大臣は、ワイドショーでもニュースでも、行動を逐一報道されている。大したフィーバーぶりだ。
まあ、夏の間、毎日流されたノリP報道にはケッタクソ悪い思いを抱いていたので、選挙で流れが変わってよかったと思う。
ノリP、いじめすぎだよ。人を殺したわけでも、人のモノを盗ったわけでもない。誰にも迷惑をかけていない彼女をどうしてあそこまでいじめなきゃならんのか。いずれ罪はつぐなうことになるんだから、ほっといてあげればいいじゃないか。
子どもに、「覚醒剤をやるとどうしていけないの?」と問われ、「ダメな人になってしまうからだよ。体もボロボロになってしまうんだ」としか答えられなかった。それがどうして「悪いこと」なのか、説明できなかった。他人に売ったら「悪いこと」だし、「悪いやつ」だけどさ、やるだけで「悪いやつ」といえるのか?
誰かマトモな答えをもっているか? 「ダメな人」になるのは事実だけど、それをやって「ダメな人」になるのは本人なのだから、それこそ自己責任の範疇じゃないのか?
話がそれた。選挙の話をしたいと思っていたんだ。
個人的には、中川昭一元財務相がきっちり落選したのがいちばん印象的だった。
あのとおり苦み走ったイイ男、大臣経験者で親父の地盤を継いでいる。本来なら絶対に負けない人なんだが、ちゃんと負けた。北海道民、わかってるじゃないかと思った。
例の経済サミットでの失態はさすがにひどい。
本人は断酒をして選挙に臨むといっていたけど、断酒したぐらいで禊ぎが済んで、また議員でございますとデカイ顔できるなんて、あまりに「罰」が軽すぎないか? ノリPは毎日いじめられてるのに!
きちんと機能してるじゃないか民主主義、と思った次第である。たぶん、毎晩ヤケ酒かっくらってるだろうね中川さんは。
今回の選挙に関して、当然のこといろんな批評が出てるけど、いちばん腹が立ったのは田原総一郎のコメントだった。
選挙結果を見て、「日本人はバカなんじゃないか」とかいいやがった。要は、郵政選挙における自民党の勝ちすぎでも学習せず、今回も民主党がバカ勝ちした。一辺倒になりすぎる日本人の性癖が出てる、っていうんだ。
同様のことは、言葉こそやわらかくなっているけど、このコラムでもいっている。
バカはおまえだ、といいたいね。
選挙は秘密投票、誰がどこに投票したかわからないのが原則だ。今回だって、みんなが示し合わせて民主党を選んだわけじゃないんだよ。個人の票を総合したら、結果としてそうなっちゃたんだ。
たしかに「勝ちすぎ」とはみんな思ってるだろうけど、それは小選挙区比例代表制という選挙システムのせいであって、日本人の性質のせいじゃない。選挙でちょうどよく、いい案配に票を分配するなんてことは、誰もできないんだよ。示し合わせて投票なんか、できないんだから!
田原総一郎さんは立派なジャーナリストだと思っているし、尊敬もしているけれど、ときどきこういう「誰にも、どうしようもできないこと」を「日本人」という一人格でまとめて、責任をおっかぶせようとする。
よくないところだと思うんだけど、治らないんだろうな、たぶん死ぬまで。
2009年3月4日
今こそ、はっぴいえんどの歌を歌いなさい
先日、鈴木茂の逮捕にともなうはっぴいえんどのアルバム発売中止に関して、大いに憤激したのだけれど、現在発売中の「SIGHT」誌で高橋源一郎がほぼ同じことを書いているのを発見した。
これは誰かが問題にしなきゃ絶対にウソだ、と思っていたのでうれしかった。
それが高橋源一郎だったのもうれしい(じつはかなりファンです)。
次は、ミュージシャン・サイドからのアクションが必要だろう。
インタビューという形での「発言」もいいけれど、やはりミュージシャンである以上、それを歌にして歌ってもらいたい。
とはいえ、日本語という言語で歌う以上、理屈っぽい歌はとかく駄作になりがち。次のような方法を推奨します。
大昔の事例になるけれど、1967年、ストーンズのミック・ジャガーとキース・リチャーズが麻薬で逮捕されたことがある(じつは麻薬でパクられたロックスター第一号)。このとき、ザ・フーがすぐさまストーンズの楽曲をカバー、シングル・リリースした。
当然、ストーンズを応援します、というアピールだったわけだが、「便乗商法だ!」てな批判もあったと聞いている。
むろん、そういう側面があったのも否定できない。フーのピート・タウンゼンド、および当時のプロデューサー、キット・ランバートは、音楽的才能もさることながら、商魂もたいへんにたくましい人たちだから。
それでいいのだと思う。芸術の才能と商才は矛盾するものではないのだ(ま、鈴木茂/はっぴいえんどで商売になるかといえば、うーん……ですけどね)。
だからさ、歌をつくって歌うのは無理でも、カバーしてリリースしてくれよ。一晩でできるだろ、カバーなら。メジャーから発売が無理なら、インディーズでリリースすりゃいいじゃないか。今はインディーズだって、簡単に全国流通できるんだし。
今はっぴいえんどを歌う。それこそ、ロックだと思うんだよな。
上記の行動をとったアーティストは手放しに応援します。
時間をかけなくても、いいのができるんじゃないかな、と思う。
フーのシングル「アンダー・マイ・サム/ラスト・タイム」は、たしか一晩で録音した、という話だったと思うけど、急造にしてはかなりよかったよ。
これは誰かが問題にしなきゃ絶対にウソだ、と思っていたのでうれしかった。
それが高橋源一郎だったのもうれしい(じつはかなりファンです)。
次は、ミュージシャン・サイドからのアクションが必要だろう。
インタビューという形での「発言」もいいけれど、やはりミュージシャンである以上、それを歌にして歌ってもらいたい。
とはいえ、日本語という言語で歌う以上、理屈っぽい歌はとかく駄作になりがち。次のような方法を推奨します。
大昔の事例になるけれど、1967年、ストーンズのミック・ジャガーとキース・リチャーズが麻薬で逮捕されたことがある(じつは麻薬でパクられたロックスター第一号)。このとき、ザ・フーがすぐさまストーンズの楽曲をカバー、シングル・リリースした。
当然、ストーンズを応援します、というアピールだったわけだが、「便乗商法だ!」てな批判もあったと聞いている。
むろん、そういう側面があったのも否定できない。フーのピート・タウンゼンド、および当時のプロデューサー、キット・ランバートは、音楽的才能もさることながら、商魂もたいへんにたくましい人たちだから。
それでいいのだと思う。芸術の才能と商才は矛盾するものではないのだ(ま、鈴木茂/はっぴいえんどで商売になるかといえば、うーん……ですけどね)。
だからさ、歌をつくって歌うのは無理でも、カバーしてリリースしてくれよ。一晩でできるだろ、カバーなら。メジャーから発売が無理なら、インディーズでリリースすりゃいいじゃないか。今はインディーズだって、簡単に全国流通できるんだし。
今はっぴいえんどを歌う。それこそ、ロックだと思うんだよな。
上記の行動をとったアーティストは手放しに応援します。
時間をかけなくても、いいのができるんじゃないかな、と思う。
フーのシングル「アンダー・マイ・サム/ラスト・タイム」は、たしか一晩で録音した、という話だったと思うけど、急造にしてはかなりよかったよ。
2009年2月21日
腹が立って仕方ねえぜ―はっぴいえんど販売停止
久しぶりに、新聞記事を見て腹が立った。
例の、中川元大臣の飲酒の一件でさえ、私は怒りはしなかった。驚きあきれ、咄嗟に「国辱」という言葉を思い浮かべはしたけれど、中川さんの酩酊ぶりがおかしくて、やっぱり、笑っちまった。腹は、立たなかったのである。
でも、次のニュースにはホント、むかっ腹が立った。クレーム電話の一本もかけてやろうかと思ったぐらいだ。今でも、ムカムカしている。
はっぴいえんど:名盤「風街ろまん」出荷・販売停止 鈴木茂容疑者の逮捕で
http://mainichi.jp/enta/music/news/20090218mog00m200066000c.html?link_id=RAH04
以前、小室哲哉が詐欺容疑で逮捕されたときも、おかしいと思ったのだ。予定されていたTMネットワークのベスト盤が発売中止になり、各メディアが一斉に、小室の楽曲のオンエアを中止すると発表した。
小室は、たしかに詐欺をやった。その罪は、彼自身がつぐなわなければならない。でも、作品に罪はないはずなのである。表現者が罪人になったからといって、なぜ作品まで一緒に葬られなければならないのか。
まして、この時点で小室は刑が確定してはいなかった。罪人ですらない。「容疑者」に過ぎなかったのだ。それをなぜ?
そのときも腹が立ったのだけど、今回ほどじゃないのは、単に私が小室の音楽になんの思い入れもないからに過ぎない。だが、鈴木茂となると話はちがう。偉大なギタリストだと思っているし、思い入れもじゅうぶんある。それに、レコード会社の行動に、矛盾がありすぎる。何もかもがおかしいのである。
『走れメロス』という文学作品がある。今でも教材になってるかどうかはわからないけれど、私が高校生だったころ(中学だっけ?)には、国語の教科書に載っていた。
この作品の作者は、戦前は重罪であった共産党の細胞活動をやっていた。れっきとした犯罪者であったのだ。さらに、情死を企て、女は死んじまって自分だけ生き残った。これも何らかの罪になったはずである。情死から生還した後は薬物中毒の治療のために精神病院に入っている。ジャンキーだったのだ。そして、最終的には別の女と情死して、その生涯を終えている。ひとことでいえばロクデナシ。それが、『走れメロス』の作者である。
そういう人の作品を教科書に載っけて、文学作品ですから鑑賞しましょうとほざいているのは、作者が誰であろうと作品は素晴らしいからだろう。教育に役立つ、と判断されているからだ。作者と作品が同罪とするならば、『走れメロス』をこともあろうに教科書に載せようなんて話が、通るはずがない。
この国は、作者と作品を分けて考えましょう、というのを、国家がみずからおこなっている国なのである。そういう国の、たかが一企業が、なぜ、作者と作品を一緒くたにして、作品にまで罪を負わせねばならないのか?
もう一度問う。表現者が罪に問われたからといって、なぜ作品まで罪を負わなければならないのか?
しかも、はっぴいえんどの音楽を持ち上げ、やれトリビュート・アルバムだの、CMタイアップだのして、大いにカネ儲けしたのはおまえらじゃないか。何十年も売れ続けるロングセラーとして、再販再販で大儲けしたのも、おまえらじゃないか。なぜ、恩を仇で返すようなマネをする? 表現者が苦境に立たされたなら、逆に守ってやるのがおまえらの立ち位置だろう。すこしは道義ってやつをわきまえてくれよ。
しかも、やり口が不徹底だ。やるならトコトンやりゃいいじゃないか。
はっぴいえんどの音楽を販売停止にするなら、鈴木茂が在籍したティンパンアレイがバックをつとめたユーミンのアルバムも販売停止にすべきだ。鈴木茂が名をつらねた録音をすべて生産中止にすればいい。鈴木茂ははっぴいえんどでは数曲しか書いてないんだから、「演奏した」にすぎない。それを販売停止にするならば、他のアーティストのアルバムだって同じことをしなければならないはずだ。なぜ、はっぴいえんどだけをスケープゴートにしなくちゃならんのか。やってることが中途半端じゃないか。
日本の音楽業界と、西洋の音楽業界を同列に並べるのは気がひけるけれど、アメリカやイギリスでこの手の話は聞いたことがない。マイケル・ジャクソンに幼児虐待容疑がかけられたときも、彼のアルバムは堂々と売られていたぜ。私の記憶がたしかならば、チャート1位になった曲を集めたマイケルのベスト盤が発売になり、これがまたチャート1位を記録したときも、裁判は係争中、マイケルは依然として「容疑者」だったはずだ。
いったい、誰に遠慮して、販売停止なんてことになったのだろうか。しゃあしゃあと売り続けたって、誰も文句はいわないだろう。40年も前のアルバム、40年も前の録音である。そんなもんに目くじら立てるやつがいるとは思えない。
第一、小室の場合とはちがって、鈴木は誰にも迷惑かけてないじゃないか。大麻汚染が広まるから、それが迷惑だとでもいうのか? 鈴木茂なんて若い連中は誰も知らねえぞ。なんの影響力もないだろう。
大麻をやってたメンバーのいるはっぴいえんどを販売停止にするなら、ビートルズのアルバムも販売停止にすべきである。大麻持ってて成田で捕まり、入国できなかったポール・マッカートニーがいるバンドだぞ。青少年に与える影響は、そのセールスから考えて、はっぴいえんどの百倍でかいだろう。ストーンズもジミヘンもディランもボブ・マーリーも、みんな売るのやめちまえ。やるならそこまでやってみせろよ馬鹿野郎。
あー腹が立つ! 頭悪すぎだぜ、ホント。
例の、中川元大臣の飲酒の一件でさえ、私は怒りはしなかった。驚きあきれ、咄嗟に「国辱」という言葉を思い浮かべはしたけれど、中川さんの酩酊ぶりがおかしくて、やっぱり、笑っちまった。腹は、立たなかったのである。
でも、次のニュースにはホント、むかっ腹が立った。クレーム電話の一本もかけてやろうかと思ったぐらいだ。今でも、ムカムカしている。
はっぴいえんど:名盤「風街ろまん」出荷・販売停止 鈴木茂容疑者の逮捕で
http://mainichi.jp/enta/music/news/20090218mog00m200066000c.html?link_id=RAH04
以前、小室哲哉が詐欺容疑で逮捕されたときも、おかしいと思ったのだ。予定されていたTMネットワークのベスト盤が発売中止になり、各メディアが一斉に、小室の楽曲のオンエアを中止すると発表した。
小室は、たしかに詐欺をやった。その罪は、彼自身がつぐなわなければならない。でも、作品に罪はないはずなのである。表現者が罪人になったからといって、なぜ作品まで一緒に葬られなければならないのか。
まして、この時点で小室は刑が確定してはいなかった。罪人ですらない。「容疑者」に過ぎなかったのだ。それをなぜ?
そのときも腹が立ったのだけど、今回ほどじゃないのは、単に私が小室の音楽になんの思い入れもないからに過ぎない。だが、鈴木茂となると話はちがう。偉大なギタリストだと思っているし、思い入れもじゅうぶんある。それに、レコード会社の行動に、矛盾がありすぎる。何もかもがおかしいのである。
『走れメロス』という文学作品がある。今でも教材になってるかどうかはわからないけれど、私が高校生だったころ(中学だっけ?)には、国語の教科書に載っていた。
この作品の作者は、戦前は重罪であった共産党の細胞活動をやっていた。れっきとした犯罪者であったのだ。さらに、情死を企て、女は死んじまって自分だけ生き残った。これも何らかの罪になったはずである。情死から生還した後は薬物中毒の治療のために精神病院に入っている。ジャンキーだったのだ。そして、最終的には別の女と情死して、その生涯を終えている。ひとことでいえばロクデナシ。それが、『走れメロス』の作者である。
そういう人の作品を教科書に載っけて、文学作品ですから鑑賞しましょうとほざいているのは、作者が誰であろうと作品は素晴らしいからだろう。教育に役立つ、と判断されているからだ。作者と作品が同罪とするならば、『走れメロス』をこともあろうに教科書に載せようなんて話が、通るはずがない。
この国は、作者と作品を分けて考えましょう、というのを、国家がみずからおこなっている国なのである。そういう国の、たかが一企業が、なぜ、作者と作品を一緒くたにして、作品にまで罪を負わせねばならないのか?
もう一度問う。表現者が罪に問われたからといって、なぜ作品まで罪を負わなければならないのか?
しかも、はっぴいえんどの音楽を持ち上げ、やれトリビュート・アルバムだの、CMタイアップだのして、大いにカネ儲けしたのはおまえらじゃないか。何十年も売れ続けるロングセラーとして、再販再販で大儲けしたのも、おまえらじゃないか。なぜ、恩を仇で返すようなマネをする? 表現者が苦境に立たされたなら、逆に守ってやるのがおまえらの立ち位置だろう。すこしは道義ってやつをわきまえてくれよ。
しかも、やり口が不徹底だ。やるならトコトンやりゃいいじゃないか。
はっぴいえんどの音楽を販売停止にするなら、鈴木茂が在籍したティンパンアレイがバックをつとめたユーミンのアルバムも販売停止にすべきだ。鈴木茂が名をつらねた録音をすべて生産中止にすればいい。鈴木茂ははっぴいえんどでは数曲しか書いてないんだから、「演奏した」にすぎない。それを販売停止にするならば、他のアーティストのアルバムだって同じことをしなければならないはずだ。なぜ、はっぴいえんどだけをスケープゴートにしなくちゃならんのか。やってることが中途半端じゃないか。
日本の音楽業界と、西洋の音楽業界を同列に並べるのは気がひけるけれど、アメリカやイギリスでこの手の話は聞いたことがない。マイケル・ジャクソンに幼児虐待容疑がかけられたときも、彼のアルバムは堂々と売られていたぜ。私の記憶がたしかならば、チャート1位になった曲を集めたマイケルのベスト盤が発売になり、これがまたチャート1位を記録したときも、裁判は係争中、マイケルは依然として「容疑者」だったはずだ。
いったい、誰に遠慮して、販売停止なんてことになったのだろうか。しゃあしゃあと売り続けたって、誰も文句はいわないだろう。40年も前のアルバム、40年も前の録音である。そんなもんに目くじら立てるやつがいるとは思えない。
第一、小室の場合とはちがって、鈴木は誰にも迷惑かけてないじゃないか。大麻汚染が広まるから、それが迷惑だとでもいうのか? 鈴木茂なんて若い連中は誰も知らねえぞ。なんの影響力もないだろう。
大麻をやってたメンバーのいるはっぴいえんどを販売停止にするなら、ビートルズのアルバムも販売停止にすべきである。大麻持ってて成田で捕まり、入国できなかったポール・マッカートニーがいるバンドだぞ。青少年に与える影響は、そのセールスから考えて、はっぴいえんどの百倍でかいだろう。ストーンズもジミヘンもディランもボブ・マーリーも、みんな売るのやめちまえ。やるならそこまでやってみせろよ馬鹿野郎。
あー腹が立つ! 頭悪すぎだぜ、ホント。
2009年2月20日
忘却のひと
吉祥寺で、かなり大切な取材があった。最寄り駅までの道すがら、そのことばかり考えていたのは事実である。所持金が不足していたのは認識していたから、銀行に立ち寄ってお金をおろし、その後電車に乗り込んだ。
取材はうまくいった。上機嫌で帰路につき、最寄り駅に着いた。私はいつも、駅前の駐輪場に自転車を置いている。ところが、自転車が見あたらない。
駐輪場をくまなく探した。ゆうに10分は探していた。大した広さもないのに、である。
その間、「銀行でお金をおろすとき、銀行の前に自転車を停めた。あそこに置きっぱなしなのでは?」とは何度も考えた。しかし、そんなはずはない、と思い直したのである。ふだん、私は銀行から駅に歩いて向かうことはない。銀行→駐輪場→駅というのが通常のルートだ。
たしかに、銀行から駅までの記憶はすっぽり抜け落ちている。取材前で、もの思いにふけっていたからだ。だが、だからこそ無意識のうちに、駐輪場に自転車を停めているにちがいない、と考えた。習慣だからこそ、無意識化されるのである。日常の習慣とは異なる行動をとっていて、それを記憶していないとは考えにくい。
もう、自転車は紛失したと思わなければならない。そう覚悟を決めて、一応銀行前も確認しておこう、と銀行へ向かった。
自転車は、あった。
あきれずにはいられなかった。銀行から駅まで歩くという、普段とは異なる行動をとっていながら、私はまったくそれを記憶していなかったのである。夢遊病に近い。
自転車を見つけたときには、ハハハハと乾いた笑い声が出た。
取材はうまくいった。上機嫌で帰路につき、最寄り駅に着いた。私はいつも、駅前の駐輪場に自転車を置いている。ところが、自転車が見あたらない。
駐輪場をくまなく探した。ゆうに10分は探していた。大した広さもないのに、である。
その間、「銀行でお金をおろすとき、銀行の前に自転車を停めた。あそこに置きっぱなしなのでは?」とは何度も考えた。しかし、そんなはずはない、と思い直したのである。ふだん、私は銀行から駅に歩いて向かうことはない。銀行→駐輪場→駅というのが通常のルートだ。
たしかに、銀行から駅までの記憶はすっぽり抜け落ちている。取材前で、もの思いにふけっていたからだ。だが、だからこそ無意識のうちに、駐輪場に自転車を停めているにちがいない、と考えた。習慣だからこそ、無意識化されるのである。日常の習慣とは異なる行動をとっていて、それを記憶していないとは考えにくい。
もう、自転車は紛失したと思わなければならない。そう覚悟を決めて、一応銀行前も確認しておこう、と銀行へ向かった。
自転車は、あった。
あきれずにはいられなかった。銀行から駅まで歩くという、普段とは異なる行動をとっていながら、私はまったくそれを記憶していなかったのである。夢遊病に近い。
自転車を見つけたときには、ハハハハと乾いた笑い声が出た。
2009年2月10日
親は知らず、子も知らず(後編)
(「親は知らず、子も知らず」前編より続く)
「親知らず?」
「うん、親知らずですね」
「親知らずって、どうやって治療するんですか」
「抜くしかないね」
「抜く……」
歯を抜くのが怖いわけではない。むしろ小学生のときに乳歯を抜いて以来の体験なので、ちょっとワクワクする。
「でもね、今日は抜けないよ。今日は診察だけ。またあらためて来てください。予約してね」
予約なしでいきなり来たことがよほど気に障ったらしい。とはいえ、こっちはまだ納得いかないことも多いのである。
「べつに痛くないんですけど、抜かなきゃいけないもんですか」
「それは患者さんが決めることだから。抜かないでそのままにしている人もいるし、抜いちゃう人もいるし」
「虫歯が隣の健康な歯に伝染する、ってことはありませんか」
「ないとは言えないね。でも、かならずあるとも言えない」
「どうなんですか。抜いた方がいいんですか」
「だから、それは患者さんが決めるんですよ」
質問責めがしつこいのでますます機嫌を損ねたらしい。診察が済んで会計をする際にも、医者はしつこく言った。
「抜歯されるときには、予約入れてくださいね」
……それから、1か月近くが経過した。
じつはまだ、私の親知らずは健在なのである。虫歯はその後も進行し、鍾乳洞のように複雑で、カミソリのごとく尖った形状をより先鋭化させ続けている。舌先で患部にふれる癖も未だ直らず、相変わらず舌の先端は損傷しつづけている。とはいえ、最近は舌の方が慣れてきたのか、舌が痛むことはなくなったのだが。
聞くところによれば、虫歯っていうやつは大の大人がひいひい泣くぐらい痛いという。ひょっとすると私の歯茎は神経が通ってないのかもしれないな、などとも思う。それとも、ある日とつぜん痛みはじめるものなのか。
なんとなく、そこまで至らなければウソなような気もして、抜かずにいるのである。虫歯の進行を舌先でたしかめるのも、じつは、楽しかったりするのです。
「親知らず?」
「うん、親知らずですね」
「親知らずって、どうやって治療するんですか」
「抜くしかないね」
「抜く……」
歯を抜くのが怖いわけではない。むしろ小学生のときに乳歯を抜いて以来の体験なので、ちょっとワクワクする。
「でもね、今日は抜けないよ。今日は診察だけ。またあらためて来てください。予約してね」
予約なしでいきなり来たことがよほど気に障ったらしい。とはいえ、こっちはまだ納得いかないことも多いのである。
「べつに痛くないんですけど、抜かなきゃいけないもんですか」
「それは患者さんが決めることだから。抜かないでそのままにしている人もいるし、抜いちゃう人もいるし」
「虫歯が隣の健康な歯に伝染する、ってことはありませんか」
「ないとは言えないね。でも、かならずあるとも言えない」
「どうなんですか。抜いた方がいいんですか」
「だから、それは患者さんが決めるんですよ」
質問責めがしつこいのでますます機嫌を損ねたらしい。診察が済んで会計をする際にも、医者はしつこく言った。
「抜歯されるときには、予約入れてくださいね」
……それから、1か月近くが経過した。
じつはまだ、私の親知らずは健在なのである。虫歯はその後も進行し、鍾乳洞のように複雑で、カミソリのごとく尖った形状をより先鋭化させ続けている。舌先で患部にふれる癖も未だ直らず、相変わらず舌の先端は損傷しつづけている。とはいえ、最近は舌の方が慣れてきたのか、舌が痛むことはなくなったのだが。
聞くところによれば、虫歯っていうやつは大の大人がひいひい泣くぐらい痛いという。ひょっとすると私の歯茎は神経が通ってないのかもしれないな、などとも思う。それとも、ある日とつぜん痛みはじめるものなのか。
なんとなく、そこまで至らなければウソなような気もして、抜かずにいるのである。虫歯の進行を舌先でたしかめるのも、じつは、楽しかったりするのです。
2009年2月9日
親は知らず、子も知らず(前編)
「ああー、こりゃ親知らずだね」
予約もなしに突然に訪ねたために、午睡の時間を削られて機嫌を損ねているらしい歯科医は、診察台に横たわり大口を開けた間抜けな私に向かってそう言った。
左の奥歯に、得体の知れない穴が開いていることに気づいたのは、たしか去年の今頃だったと思う。奥歯なので見ることはできないが、舌でさわると、たしかに歯が欠けている。なるほど、これが虫歯というやつか、と思った。
私は小学校のとき乳歯を抜きに行って以来、歯医者の世話になったことがない。虫歯になったことがなかったのである。それがちょっとした自慢でもあった。だから、ついに自分の歯が虫歯になったことについては、「ついに人並みになったか」
「ハ・メ・マラの順に使えなくなるらしい。寄る年波には勝てんか」
「もう歯の優良さを自慢できんな」
など、さまざまな感慨があった。
すぐに医者にかかっても良かったのだろうけれど、痛みがあるわけじゃなし、しばし経過を見守ることにしたのである。それが1年ほど前の話。
その後、歯はまるで月が欠けていくように形を変えていった。いつしか、変わりゆく奥歯の形状を舌先でたしかめるのが、癖になっていた。
今回、とつぜんに歯医者を訪れる決断をしたのは、痛いから、ではない。相変わらず痛みはないのだが、歯の欠けたところがまるで鍾乳洞の内部のようにギザギザに変形し、ところによってはカミソリのような鋭度をもつに至り、舌でふれると舌先が傷つくようになったためである。常に舌上に香辛料を乗せているような痛がゆさをを感じる。
歯に痛みはないのだから、舌でさわりさえしなければ気になるものでもない。しかし、なにしろ1年間、ずっと舌先で奥歯の欠け具合を確かめてきたのである。さわるなと言われたってさわってしまう。結果、舌先が損傷してしまったのだ。
とはいえ、舌先でそっとふれる程度であるから、大したことはない。口内のこと、傷ついたとしてもすぐさま治癒する。だから、ほかしておいてもいいのだけれど、ここまで虫歯が進行すると、他の健康な歯にも被害が拡大するかもしれない。それが恐ろしかった。
舌先の損傷も、虫歯被害の拡大も喜ばしいことではなかった。それで、歯医者にかかることにしたのである。
なにしろ乳歯を抜いて以来一度も歯医者の世話になってないから、歯医者のシステムがどうなってるかも知らない。歯医者は一般の外来のようにとつぜん訪ねるものではなく、予約を入れて利用するものだということは、今回はじめて知った。とつぜんに訪ねたら、医者は不機嫌そうに診察に応じてくれたのである。
なにやらものものしい機材の並ぶ診察台に座り、マヌケにも大口を開けて中空を見上げる私の口腔に向かって医者がつぶやいたのが、冒頭のひとことであった。まるで木のうろに向かって秘密をぶちまける人のごとくであった。
「ああー、こりゃ親知らずだね」
(以降、「親は知らず、子も知らず」後編に続く)
予約もなしに突然に訪ねたために、午睡の時間を削られて機嫌を損ねているらしい歯科医は、診察台に横たわり大口を開けた間抜けな私に向かってそう言った。
左の奥歯に、得体の知れない穴が開いていることに気づいたのは、たしか去年の今頃だったと思う。奥歯なので見ることはできないが、舌でさわると、たしかに歯が欠けている。なるほど、これが虫歯というやつか、と思った。
私は小学校のとき乳歯を抜きに行って以来、歯医者の世話になったことがない。虫歯になったことがなかったのである。それがちょっとした自慢でもあった。だから、ついに自分の歯が虫歯になったことについては、「ついに人並みになったか」
「ハ・メ・マラの順に使えなくなるらしい。寄る年波には勝てんか」
「もう歯の優良さを自慢できんな」
など、さまざまな感慨があった。
すぐに医者にかかっても良かったのだろうけれど、痛みがあるわけじゃなし、しばし経過を見守ることにしたのである。それが1年ほど前の話。
その後、歯はまるで月が欠けていくように形を変えていった。いつしか、変わりゆく奥歯の形状を舌先でたしかめるのが、癖になっていた。
今回、とつぜんに歯医者を訪れる決断をしたのは、痛いから、ではない。相変わらず痛みはないのだが、歯の欠けたところがまるで鍾乳洞の内部のようにギザギザに変形し、ところによってはカミソリのような鋭度をもつに至り、舌でふれると舌先が傷つくようになったためである。常に舌上に香辛料を乗せているような痛がゆさをを感じる。
歯に痛みはないのだから、舌でさわりさえしなければ気になるものでもない。しかし、なにしろ1年間、ずっと舌先で奥歯の欠け具合を確かめてきたのである。さわるなと言われたってさわってしまう。結果、舌先が損傷してしまったのだ。
とはいえ、舌先でそっとふれる程度であるから、大したことはない。口内のこと、傷ついたとしてもすぐさま治癒する。だから、ほかしておいてもいいのだけれど、ここまで虫歯が進行すると、他の健康な歯にも被害が拡大するかもしれない。それが恐ろしかった。
舌先の損傷も、虫歯被害の拡大も喜ばしいことではなかった。それで、歯医者にかかることにしたのである。
なにしろ乳歯を抜いて以来一度も歯医者の世話になってないから、歯医者のシステムがどうなってるかも知らない。歯医者は一般の外来のようにとつぜん訪ねるものではなく、予約を入れて利用するものだということは、今回はじめて知った。とつぜんに訪ねたら、医者は不機嫌そうに診察に応じてくれたのである。
なにやらものものしい機材の並ぶ診察台に座り、マヌケにも大口を開けて中空を見上げる私の口腔に向かって医者がつぶやいたのが、冒頭のひとことであった。まるで木のうろに向かって秘密をぶちまける人のごとくであった。
「ああー、こりゃ親知らずだね」
(以降、「親は知らず、子も知らず」後編に続く)
2009年2月8日
追いかける旅人
それはあるアーティストの追っかけをしている人のWeb Pageであって、ライヴ・レビューが掲載されている。いっとう古いものは1984年、もっとも新しいものは昨年、2008年となっている。
そのアーティストは昨年末からツアーをやっていて、ついこの間終わったばかりだ。そのツアー・レポートはまだ上がってないが、おそらくは近々、まとめてアップされるのだろう。ツアーを追っかけながらメモをとり、最終的にツアーが終わったところで文章をアップする。それが彼のサイクルのようだ。
彼は、アーティストがコンサートを行う場所には、どんな場所であろうと出かけて行く。まさに全国津々浦々、である。むろん、仕事を持っているわけだから全部に行ってるわけじゃない。しかし、1週間ぐらい旅行を続け、毎日異なる会場のライヴを楽しむ、という程度のことは普通にやっている。
ツアーのセットリストなんてもんは、そうそう変わるもんじゃない。だから、同じ曲を毎晩聴くことになるわけだが、だからこそちょっとした事故がイベントになる。PAの調子が悪くてアーティストが不機嫌そうだったとか、MCでご当地の話をしたとか。また、バンドのノリが良かったとか悪かったとかも、当然レビューの対象になっている。
それをはじめて見たとき、モノ好きな人もいるもんだ、と思ったのである。かれこれ20年以上、そればかりをやっていて、よく飽きないもんだ。労力も時間も必要経費も、ハンパなものじゃないだろう。大いに驚き、そしてあきれた。
しかし、気がついたら彼が綴った1日1日の文章を、すべて読破してしまっていたのである。
毎日のように見ている。そのことが、彼のライヴ・レビューを、音楽雑誌に掲載される凡百の印象記などより、ずっと熱のある、読み応えのあるものにしているのだ。なにしろ、臨場感が違う。読んでいるだけで、そのライヴの空気が伝わってくる。そんな文章はそうそうお目にかかれるもんじゃないし、書けるもんでもない。
私は追っかけということをしたことがないし、したいと思ったこともない。でも、追っかけの楽しさというものを、彼の文章に教えてもらった。全国津々浦々、違う空気。セットリストは変わらなくても、アーティストの気分は変わるし、ファンの顔ぶれも変わる。彼自身の心持ちも変わる。毎日が、新しい驚きに満ちているのだ。
本当に好きなものを、ひたむきに追いかける。それ以上に素晴らしいことはない。そこに全身全霊をかけて没入し、気づいたら20年以上。そんな彼を、とてもうらやましいと思った。
そのアーティストは昨年末からツアーをやっていて、ついこの間終わったばかりだ。そのツアー・レポートはまだ上がってないが、おそらくは近々、まとめてアップされるのだろう。ツアーを追っかけながらメモをとり、最終的にツアーが終わったところで文章をアップする。それが彼のサイクルのようだ。
彼は、アーティストがコンサートを行う場所には、どんな場所であろうと出かけて行く。まさに全国津々浦々、である。むろん、仕事を持っているわけだから全部に行ってるわけじゃない。しかし、1週間ぐらい旅行を続け、毎日異なる会場のライヴを楽しむ、という程度のことは普通にやっている。
ツアーのセットリストなんてもんは、そうそう変わるもんじゃない。だから、同じ曲を毎晩聴くことになるわけだが、だからこそちょっとした事故がイベントになる。PAの調子が悪くてアーティストが不機嫌そうだったとか、MCでご当地の話をしたとか。また、バンドのノリが良かったとか悪かったとかも、当然レビューの対象になっている。
それをはじめて見たとき、モノ好きな人もいるもんだ、と思ったのである。かれこれ20年以上、そればかりをやっていて、よく飽きないもんだ。労力も時間も必要経費も、ハンパなものじゃないだろう。大いに驚き、そしてあきれた。
しかし、気がついたら彼が綴った1日1日の文章を、すべて読破してしまっていたのである。
毎日のように見ている。そのことが、彼のライヴ・レビューを、音楽雑誌に掲載される凡百の印象記などより、ずっと熱のある、読み応えのあるものにしているのだ。なにしろ、臨場感が違う。読んでいるだけで、そのライヴの空気が伝わってくる。そんな文章はそうそうお目にかかれるもんじゃないし、書けるもんでもない。
私は追っかけということをしたことがないし、したいと思ったこともない。でも、追っかけの楽しさというものを、彼の文章に教えてもらった。全国津々浦々、違う空気。セットリストは変わらなくても、アーティストの気分は変わるし、ファンの顔ぶれも変わる。彼自身の心持ちも変わる。毎日が、新しい驚きに満ちているのだ。
本当に好きなものを、ひたむきに追いかける。それ以上に素晴らしいことはない。そこに全身全霊をかけて没入し、気づいたら20年以上。そんな彼を、とてもうらやましいと思った。
2009年2月7日
陶酔の梅花
梅が咲く季節になった。私は梅の花が大好きなのである。可憐で愛らしい花弁が黒い幹にぽつぽつと白く開きはじめたとき、春がはじまる。それだけで、なにやら心が浮き立ってくるではないか。
私の家の近所にはちょっとした梅林がある。ふだんは気にもとめないが、この季節だけはここをゆっくりと通りすぎる。つぼみが赤くふくらみはじめたぐらいから観察をはじめ、やがて白いものがのぞき、それが徐々に開くのを、毎日、つぶさに観察する。
花がひとつ開けば、あとは増える一方だ。2、3日もすれば、殺風景だった黒い林が、美しい白衣裳をまとう。
今日は5分咲きといったところだろうか。遠くからでも、林が白くなっているのがわかった。うきうきする。梅林に近づくにつれ、甘い香りがしてきた。ああ、なんていい香りだろう!
春の香りだ、と思って、私は胸腔いっぱいに吸い込んだ。
心が洗われるようだ――そう思った途端、やけに香りが強いじゃないか、と気づいた。
正月に上野公園に行ったとき、蝋梅を見たのである。蝋梅の黄色い花は見た目もかわいらしいけれど、なによりその香りの鮮烈さが特徴的だ。私は蝋梅の香りに、文字どおり陶酔の心地を味わった。
その記憶が残っていたから、つい梅も、芳香を放つものと思ってしまったのである。だが、言うまでもなく梅はそれほど強い香りを持たない。だとするならば、この甘い香りはいったいなんなのだ?
梅林と通りをはさんだ向かいの住宅で、壁の塗装をやっていた。甘い香りは、塗料の香り、もっといえばシンナーの香りであった。
私はなかば酩酊したようになって、梅林を後にした。
私の家の近所にはちょっとした梅林がある。ふだんは気にもとめないが、この季節だけはここをゆっくりと通りすぎる。つぼみが赤くふくらみはじめたぐらいから観察をはじめ、やがて白いものがのぞき、それが徐々に開くのを、毎日、つぶさに観察する。
花がひとつ開けば、あとは増える一方だ。2、3日もすれば、殺風景だった黒い林が、美しい白衣裳をまとう。
今日は5分咲きといったところだろうか。遠くからでも、林が白くなっているのがわかった。うきうきする。梅林に近づくにつれ、甘い香りがしてきた。ああ、なんていい香りだろう!
春の香りだ、と思って、私は胸腔いっぱいに吸い込んだ。
心が洗われるようだ――そう思った途端、やけに香りが強いじゃないか、と気づいた。
正月に上野公園に行ったとき、蝋梅を見たのである。蝋梅の黄色い花は見た目もかわいらしいけれど、なによりその香りの鮮烈さが特徴的だ。私は蝋梅の香りに、文字どおり陶酔の心地を味わった。
その記憶が残っていたから、つい梅も、芳香を放つものと思ってしまったのである。だが、言うまでもなく梅はそれほど強い香りを持たない。だとするならば、この甘い香りはいったいなんなのだ?
梅林と通りをはさんだ向かいの住宅で、壁の塗装をやっていた。甘い香りは、塗料の香り、もっといえばシンナーの香りであった。
私はなかば酩酊したようになって、梅林を後にした。
2008年9月22日
2008年9月13日
ネット・リテラシー雑感
さいきんはネット用語がいつのまにか市民権を得たかのようにネット以外のメディアで使われはじめたりするから、ついていくのが大変だ。
某巨大掲示板とかをしょっちゅう見てる人ならとうに了解済みのことでも、こっちははじめて聞く言葉だったりする。
ずいぶん前だが、orzというのがわかんなくて、その方面に詳しい友人に聞いた。意味と用法を聞いて、なーるほどねと思った記憶がある。
今日は「喪」という言葉に出くわした。喪。なんじゃらほい。こうなると、もう気分は盆栽老人である。
調べて、意味がわかった。ふーんと思った。
ネットで新しい言葉が生まれるのを否定するつもりはない。
閉じたコミュニティ(仲のいい友達どうしとか、サークルとか)ではどんなところでも仲間内にしかわからない符丁が使われるものだ。ネットの場合は、それがミョーな形で開かれてるから「仲間内」と「外」の区別があいまいになってしまう。
さらに、閉じたコミュニティとはちがって、言い出しっぺが誰なのか、皆目見当がつかない、という特徴もある。
まあ、これはそういうもんなんだから、そういうもんだと受け止めるしかないのである。
ネットの普及によって、多くの人が自分のメディアをもち、語るようになった。情報のほとんどがマスコミから一方的に与えられた旧・世界よりも、おもしろい世界になっているんじゃないか、と個人的にはおもっている。
たぶん、「文章を書く」ことを習慣にしている人の数も、統計をとれるもんじゃないから本当のところはわからないけれど、増えていると思われる。
でも、どうなんだろ? 一般の人の「民度」といいますか、知的レベルというのは、反対に下がってるんじゃなかろうか。
まっとうな校正を経た文章は学校の教科書しか知らず、その教科書はロクに読んでなくて、あとはネットで流通するテキストを読む。たいがいは友人知己のブログやら某巨大掲示板やらに記載された文章を読む。
そうなると、「まっとうな文章」にふれる機会ってないんだよね。
まあ、何がまっとうで何がまっとうでないかの区別に関しては定義が必要だし、それを定義づけようとするとややっこしいことになるからしないけれど、ときどき、何が言いたいのかサッパリわからない文に出会ったりすると、そういうことを思う。
私は仕事がら、「ライター」と称する若い連中の文章を読むこともあるんだけど、あまりのひどさに頭痛がしてくることがある。
あのね、文章というものは、コミュニケーションに向かってるものなのよ。あなたひとりに理解できたって、他人に理解できなきゃ意味ないの。
まあ、マスコミ周辺の「ライター」とか「デザイナー」なんて、資格試験も入社試験もなくて、ただ自分で「ライター」とか「デザイナー」とか言えばなれちゃうイージーな職業だから、こういう人は昔からいたんだろうな、とは思うんだけど。
ひょっとしたら、ネットの影響もあるんじゃなかろうか、とも思うわけです。
もっとも、これだって調査できるこっちゃないから(どっかの独立行政法人にでもやってもらうほかない)、ほんとのところはわかりませんけど。
某巨大掲示板とかをしょっちゅう見てる人ならとうに了解済みのことでも、こっちははじめて聞く言葉だったりする。
ずいぶん前だが、orzというのがわかんなくて、その方面に詳しい友人に聞いた。意味と用法を聞いて、なーるほどねと思った記憶がある。
今日は「喪」という言葉に出くわした。喪。なんじゃらほい。こうなると、もう気分は盆栽老人である。
調べて、意味がわかった。ふーんと思った。
ネットで新しい言葉が生まれるのを否定するつもりはない。
閉じたコミュニティ(仲のいい友達どうしとか、サークルとか)ではどんなところでも仲間内にしかわからない符丁が使われるものだ。ネットの場合は、それがミョーな形で開かれてるから「仲間内」と「外」の区別があいまいになってしまう。
さらに、閉じたコミュニティとはちがって、言い出しっぺが誰なのか、皆目見当がつかない、という特徴もある。
まあ、これはそういうもんなんだから、そういうもんだと受け止めるしかないのである。
ネットの普及によって、多くの人が自分のメディアをもち、語るようになった。情報のほとんどがマスコミから一方的に与えられた旧・世界よりも、おもしろい世界になっているんじゃないか、と個人的にはおもっている。
たぶん、「文章を書く」ことを習慣にしている人の数も、統計をとれるもんじゃないから本当のところはわからないけれど、増えていると思われる。
でも、どうなんだろ? 一般の人の「民度」といいますか、知的レベルというのは、反対に下がってるんじゃなかろうか。
まっとうな校正を経た文章は学校の教科書しか知らず、その教科書はロクに読んでなくて、あとはネットで流通するテキストを読む。たいがいは友人知己のブログやら某巨大掲示板やらに記載された文章を読む。
そうなると、「まっとうな文章」にふれる機会ってないんだよね。
まあ、何がまっとうで何がまっとうでないかの区別に関しては定義が必要だし、それを定義づけようとするとややっこしいことになるからしないけれど、ときどき、何が言いたいのかサッパリわからない文に出会ったりすると、そういうことを思う。
私は仕事がら、「ライター」と称する若い連中の文章を読むこともあるんだけど、あまりのひどさに頭痛がしてくることがある。
あのね、文章というものは、コミュニケーションに向かってるものなのよ。あなたひとりに理解できたって、他人に理解できなきゃ意味ないの。
まあ、マスコミ周辺の「ライター」とか「デザイナー」なんて、資格試験も入社試験もなくて、ただ自分で「ライター」とか「デザイナー」とか言えばなれちゃうイージーな職業だから、こういう人は昔からいたんだろうな、とは思うんだけど。
ひょっとしたら、ネットの影響もあるんじゃなかろうか、とも思うわけです。
もっとも、これだって調査できるこっちゃないから(どっかの独立行政法人にでもやってもらうほかない)、ほんとのところはわかりませんけど。
2008年9月12日
もはや「やりすぎ」ではない
「やりすぎコージー」が“月9革命”を起こす!? 過激な深夜番組がまさかのゴールデン進出!
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20080911-00000011-the_tv-ent
これって、たぶん喜ぶべきことなんだろう。
番組制作スタッフとしては。
でも、俺がこの番組を好きだったのは、ふだんは炊き出しに並んでる芸人とか、屁を何十発も連続で放つのが「芸」の芸人とか、どう考えてもあっちの世界に行っちゃっていて、もはや「芸」ですらない芸をやる芸人とか、そういうやつらが出てくるから好きだったんだ。
言い換えれば、芸の世界の闇。
「華」しか映らないはずのテレビに、真っ黒い闇がのぞく。
笑えないどころか、凍りつくことも多かったが、それでも、好きだった。
コージたちのトークも、深夜だと割り切って好き勝手なこと話すから面白かった。
風俗で豪遊した話、股間にケジラミを発見した話。腹抱えて笑った。
そういうのも、もう出ないだろう。
月9版も、たぶん2~3回は見てやるだろう。
でも、それでつまんなかったらもう見てやんないかんな!!!
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20080911-00000011-the_tv-ent
これって、たぶん喜ぶべきことなんだろう。
番組制作スタッフとしては。
でも、俺がこの番組を好きだったのは、ふだんは炊き出しに並んでる芸人とか、屁を何十発も連続で放つのが「芸」の芸人とか、どう考えてもあっちの世界に行っちゃっていて、もはや「芸」ですらない芸をやる芸人とか、そういうやつらが出てくるから好きだったんだ。
言い換えれば、芸の世界の闇。
「華」しか映らないはずのテレビに、真っ黒い闇がのぞく。
笑えないどころか、凍りつくことも多かったが、それでも、好きだった。
コージたちのトークも、深夜だと割り切って好き勝手なこと話すから面白かった。
風俗で豪遊した話、股間にケジラミを発見した話。腹抱えて笑った。
そういうのも、もう出ないだろう。
月9版も、たぶん2~3回は見てやるだろう。
でも、それでつまんなかったらもう見てやんないかんな!!!
2008年8月31日
富野監督吠える a.k.a ガンダムって面白いですか?
私はどっちかというと、「ガンダムなんて糞つまんねえアニメに何故みんな熱狂するんだ?」と感じてしまう方です。
モビルスーツというコンセプトの新しさ、正義のロボットが悪いロボットを倒す勧善懲悪を廃し、「戦争」というリアリティを持ち込んだ新しさは評価します。でも言いたい。「ガンダムってそんなに面白いですか?」と。ファースト・ガンダムがあれほど評価される理由が私にはさっぱりわかりません。
同じガンダム・シリーズでも、格闘ものの要素を採り入れた『機動武闘伝Gガンダム』や、富野さんの監督作でも『ターンAガンダム』の方が楽しめたと思います。また、『ガンダム』の次作であった『ザブングル』や『ダンバイン』の方が面白くないですか? みんなほんとにガンダム好きなの? みんなが好きだから好きって言ってるだけじゃないの?
まあ、それはともかくとして、富野監督の公演をレポートした次の記事は楽しめました。いいねえ、こういう爺さん。
ガンダムの富野監督が東大でスペースコロニーをぶった切る
http://www.gizmodo.jp/2008/06/post_3833.html
モビルスーツというコンセプトの新しさ、正義のロボットが悪いロボットを倒す勧善懲悪を廃し、「戦争」というリアリティを持ち込んだ新しさは評価します。でも言いたい。「ガンダムってそんなに面白いですか?」と。ファースト・ガンダムがあれほど評価される理由が私にはさっぱりわかりません。
同じガンダム・シリーズでも、格闘ものの要素を採り入れた『機動武闘伝Gガンダム』や、富野さんの監督作でも『ターンAガンダム』の方が楽しめたと思います。また、『ガンダム』の次作であった『ザブングル』や『ダンバイン』の方が面白くないですか? みんなほんとにガンダム好きなの? みんなが好きだから好きって言ってるだけじゃないの?
まあ、それはともかくとして、富野監督の公演をレポートした次の記事は楽しめました。いいねえ、こういう爺さん。
ガンダムの富野監督が東大でスペースコロニーをぶった切る
http://www.gizmodo.jp/2008/06/post_3833.html
2008年8月14日
或るソウル・シンガーの死

音楽をネットでダウンロードして購入する、という習慣はない。ネットで流通するmp3をはじめとした圧縮音源に今ひとつ馴染めていないというのもあるし、なんのかんの言って旧態依然のCD/アルバムという流通形態に愛着があって、入手するならそっちを、と考えてしまうからだ。
でも、過去に一度だけ、音楽をダウンロード購入したことがある。オリトという日本人ソウルシンガーの「感謝の歌」というシングルだった。
世の中じゃダウンロード購入というもんが流行っているみたいだから、一度試してみよう、などと思ったわけではない。その形でしか流通してなかったから、やむなくダウンロードで買ったのである。
シンガー・オリトの人気のほどは、この一事をもって伺い知ることができよう。過去には何枚かアルバムを出してたみたいだけど、シングルCDを出せるようなアーティストではなかったのだ。早い話が、誰も知らない歌手。それがオリトだった。
でも、彼の「感謝の歌」を聴いたときはほんとに衝撃を受けた。
きょうび、ブラック・ミュージックの一形態としての「R&B」に影響を受けた日本人歌手は、掃いて捨てるほどいるだろう。雨後の筍のように次々出てくるから名前も覚えられないけれど、みな大した歌唱力を持っている。じっくり聴いたわけじゃないから一概には言えないが、サウンドはビヨンセとかメアリー・J・ブライジみたいな打ち込みのヒップホップ・ソウルを模したものが多く、メロディはわりと歌謡曲的だったりすることも多いようだ。
オリトの「感謝の歌」も、同様にブラック・ミュージックを模したものである。だが、彼の歌はいわゆる「R&B」ではない。本国アメリカではとうに死んだといわれるソウル・ミュージック、ニュー・ソウル・コンボのスタイルを使った、トーキング・ブルース風の日本語の歌。それがオリトの歌なのだ。日本語詞の乗せ方もみごとで、まさに「ソウル」としか言いようのない音楽になっている。こういう表現もあるんだなあ、と大いに感心し、感動した。
たぶん、一昨年のことだったと思う。私はいそいそと、慣れないダウンロード購入で、彼の歌を手に入れたのだ。
それから幾星霜。話は昨日のことになる。ディスクユニオンで、オリトのアルバムを見かけた。「感謝の歌」も入っている。へえ、アルバム出せたんだ、良かったじゃん、と思ったのも束の間、ジャケットに穏やかならざるものを感じた。
アルバム・タイトルは「イモータル・オリト」。ジャケットは、あのオーティス・レディングの遺作「イモータル・オーティス」のパロディになっている。
これはひょっとすると、と思って帰宅してから調べてみると、やっぱり、そうだった。オリトさんは亡くなっていたのだ。今年の2月、ツアー先の大阪で。享年43。若すぎる死であった。
売れてない歌手だからこそ、生で聴く機会も簡単に得られるだろうと思っていたが、残念ながらそれも果たせなくなってしまったようだ。オリトは、知る人ぞ知る、知らない人はまるで知らない歌手のまま、あの世に行っちまった。
訃報を知って、「感謝の歌」をあらためて聴いてみた。偶然だと思うけれど、ひょっとするとオリトさんは、死ぬのがわかっていてこの歌を歌ったんじゃないか、と思ったりした。この曲は彼のラスト・レコーディングになったというが、スワン・ソングが「感謝の歌」なんて、出来すぎじゃないか。
冥福を祈りたい。
知っている曲はたった1曲、あとは素性も知らず、それ以上の興味も持たなかったけれど、あなたの歌は、たしかに私に届いた。これもたぶん、なにかの縁だろう。
おそらくは有志の手によって出されただろうラスト・アルバム「イモータル」は、買おうと思っている。
ラスト・アルバム「イモータル」。1曲目からアル・グリーンのカバー。
http://www.amazon.co.jp/IMMORTAL-SOUL-ORITO/dp/B001A9TJJ8
吉祥寺のライブハウス「JIROKITI」における「感謝の歌」のライヴ演奏。
JIROKITIはこれまた知る人ぞ知るブルース・クラブである。後半部のアドリブが圧巻。
http://jp.youtube.com/watch?v=MdcRztAQoZE
2008年7月18日
人生は死に至る戦ひ
芥川の『歯車』という小説は、正直ぜんぜん面白くないし、構成もなっちゃいないし、インテリを気取ってるし、そのうえ読めば決まって暗い気持ちになるというオプションつきの、あんまり人にオススメできない作品である。にもかかわらず、私はなぜか何度も読んでいる。
たぶん、半ば狂気の世界に足をつっこんでいた芥川の混乱しきった頭の中を旅するような、不思議な感興を抱かせるからだろう。
その芥川の直筆遺書が発見されたそうだ。
http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/080718/acd0807181054005-n1.htm
比較的有名な次の文句、
一、人生は死に至る戦ひなることを忘るべからず
の「死に至る」は後から追加されたものだそうだ。
芥川だなあ、と思った。死ぬ間際まで神経過敏、そして死ぬ間際まで気取ってやがる。
直筆遺書、見てみたい。写真ぐらい公開しないもんだろうか。
たぶん、半ば狂気の世界に足をつっこんでいた芥川の混乱しきった頭の中を旅するような、不思議な感興を抱かせるからだろう。
その芥川の直筆遺書が発見されたそうだ。
http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/080718/acd0807181054005-n1.htm
比較的有名な次の文句、
一、人生は死に至る戦ひなることを忘るべからず
の「死に至る」は後から追加されたものだそうだ。
芥川だなあ、と思った。死ぬ間際まで神経過敏、そして死ぬ間際まで気取ってやがる。
直筆遺書、見てみたい。写真ぐらい公開しないもんだろうか。
2008年6月22日
秋葉原殺傷事件を考える <1>
秋葉原殺傷事件に関しては、ずいぶんいろんなことを考えさせられました。
犯人である「彼」の携帯サイトへの書き込みも熟読してしまいましたし、現在も報道のひとつひとつに、強い興味をもって接しています。正直、ゲンナリしてしまうことが多いので、精神衛生上よろしくないことはよくわかっているのですが、どうしてもやめることができません。
どうしてこれほどに強い関心を抱いたかといえば、ひとえに「彼」が、犯行に至るまでの心情を、つぶさに記録し、公開していたためだと思います。
すこし広い視点をもてば、無差別大量殺人というのは、洋の東西を問わず、頻繁に起こっているものだということを知ることができます。有名なものに、横溝正史の『八つ墓村』のモデルになったといわれる津山三十人殺しや、コロンバインの銃乱射事件があります。
その視点に立ってみれば、「彼」の犯行はとくに珍しいものではありません。
だが、「彼」ほどに、犯行動機を世間の目にさらし、犯行に至るまでの自己の心情を執拗に綴った殺人者はいなかった。犯行後に手記を残す殺人者は多いでしょうが、犯行前にそれをやった者は、私の知るかぎりいません。その意味で、「彼」は特別な存在なのです。
とはいえ、私が自分でもちょっと異様と思えるほどに事件に興味をもってしまったのは、単に「彼」が残した心情吐露がめずらしかったから、だけではなかったと思います。
「彼」が通ったのと同じ道を、かつて自分も通ったことがある。
そんな気がしたからです。「彼」の書き込みを熟読しながら、そこに綴られている言葉のひとつひとつに身をゆだねているうちに、私はそのことに気づきました。誤解を恐れずに言えば、私が「彼」でもおかしくなかったのです。
とはいえ、私は過去に「彼」と同じような犯罪を犯したわけではありませんし、犯行を考えたことすらありません。ただ、同じように世をすね、疎外感を感じていたことがあるだけです。
同じようなココロの動きをしていたはずなのに、「彼」は殺人鬼となり、自分はならなかった。その相違はどこにあるのか。私はずいぶん、そのことを考えました。
安全に暮らしていくためにも、私たちは「彼」のような人間を二度と世に出さないよう努めていかなければなりません。それが社会人の、大人のつとめです。いったいどうしたら「彼」に犯行を思いとどまらせることができるか、という問いは、私に「どうして自分は殺人鬼にならなかったのか」を考えさせることになりました。
「彼」に犯行をやめさせる方法は、すぐに考えつきました。すごく単純なことなのです。
「彼」はみごとな五七調をもって、こう綴っています。
「彼女がいない、ただこの一点で人生崩壊」
彼女さえいれば、「彼」は犯行に至らなかったでしょう。だから、「彼」に犯行をやめさせるためには、「彼」に恋人をつくってあげればいいのです。だが、これが難しい。
「彼」に恋人ができないのは、まわりにいる女性が悪いわけではありません。「彼」自身が悪いのです。それも、「彼」の容姿がふるわないためではない。「彼」の写真を見るとわかりますが、顔立ちは悪くなく、むしろ端正なほうだといえるでしょう。どうやら若ハゲみたいですが、こんなもんは隠そうと思えばどうとでもできますし、開き直ってしまえば気になるほどのもんでもないと思います。
「彼」に恋人ができなかったのは、「彼」みずからが可能性を閉ざしていたためです。じつは、私が「同じ道を通ったことがあるなあ」と感じるのも、このあたりのように思うのですが、長くなるので、また日をあらためて綴ることにいたします。
犯人である「彼」の携帯サイトへの書き込みも熟読してしまいましたし、現在も報道のひとつひとつに、強い興味をもって接しています。正直、ゲンナリしてしまうことが多いので、精神衛生上よろしくないことはよくわかっているのですが、どうしてもやめることができません。
どうしてこれほどに強い関心を抱いたかといえば、ひとえに「彼」が、犯行に至るまでの心情を、つぶさに記録し、公開していたためだと思います。
すこし広い視点をもてば、無差別大量殺人というのは、洋の東西を問わず、頻繁に起こっているものだということを知ることができます。有名なものに、横溝正史の『八つ墓村』のモデルになったといわれる津山三十人殺しや、コロンバインの銃乱射事件があります。
その視点に立ってみれば、「彼」の犯行はとくに珍しいものではありません。
だが、「彼」ほどに、犯行動機を世間の目にさらし、犯行に至るまでの自己の心情を執拗に綴った殺人者はいなかった。犯行後に手記を残す殺人者は多いでしょうが、犯行前にそれをやった者は、私の知るかぎりいません。その意味で、「彼」は特別な存在なのです。
とはいえ、私が自分でもちょっと異様と思えるほどに事件に興味をもってしまったのは、単に「彼」が残した心情吐露がめずらしかったから、だけではなかったと思います。
「彼」が通ったのと同じ道を、かつて自分も通ったことがある。
そんな気がしたからです。「彼」の書き込みを熟読しながら、そこに綴られている言葉のひとつひとつに身をゆだねているうちに、私はそのことに気づきました。誤解を恐れずに言えば、私が「彼」でもおかしくなかったのです。
とはいえ、私は過去に「彼」と同じような犯罪を犯したわけではありませんし、犯行を考えたことすらありません。ただ、同じように世をすね、疎外感を感じていたことがあるだけです。
同じようなココロの動きをしていたはずなのに、「彼」は殺人鬼となり、自分はならなかった。その相違はどこにあるのか。私はずいぶん、そのことを考えました。
安全に暮らしていくためにも、私たちは「彼」のような人間を二度と世に出さないよう努めていかなければなりません。それが社会人の、大人のつとめです。いったいどうしたら「彼」に犯行を思いとどまらせることができるか、という問いは、私に「どうして自分は殺人鬼にならなかったのか」を考えさせることになりました。
「彼」に犯行をやめさせる方法は、すぐに考えつきました。すごく単純なことなのです。
「彼」はみごとな五七調をもって、こう綴っています。
「彼女がいない、ただこの一点で人生崩壊」
彼女さえいれば、「彼」は犯行に至らなかったでしょう。だから、「彼」に犯行をやめさせるためには、「彼」に恋人をつくってあげればいいのです。だが、これが難しい。
「彼」に恋人ができないのは、まわりにいる女性が悪いわけではありません。「彼」自身が悪いのです。それも、「彼」の容姿がふるわないためではない。「彼」の写真を見るとわかりますが、顔立ちは悪くなく、むしろ端正なほうだといえるでしょう。どうやら若ハゲみたいですが、こんなもんは隠そうと思えばどうとでもできますし、開き直ってしまえば気になるほどのもんでもないと思います。
「彼」に恋人ができなかったのは、「彼」みずからが可能性を閉ざしていたためです。じつは、私が「同じ道を通ったことがあるなあ」と感じるのも、このあたりのように思うのですが、長くなるので、また日をあらためて綴ることにいたします。
2008年6月19日
アイ・ラブ・レノボ

先日の500MBハードディスク増設に気をよくして、また設備投資しました。
私のノートパソコンはThinkPad X41というしばらく前の機種なのですが、買ったときからメモリは不足気味でした。いつかは増設しなきゃな、と思っていたのですが、めんどくさいのとノート用メモリは高い(と思いこんでいた)のとで、そのまま使い倒していたのです。
ところが、調べてみるもんですよね。今、メモリってムチャ安いんです。
PC2-4200の1GBメモリがさ、通販で送料込み3000円未満!!
デスクトップ用じゃないよ。ノート用だよ?
むろん無印バルク品ですが、問題はまったくございません。
驚いたのは、lenovoがメモリの換装手順を映像つきで解説してくれていること。
ふつう、ノートPCのメモリの増設にたいするメーカーのアティテュードは、お店に頼んでね or 自己責任でね、の二通りしかあり得ないと思うのです。ところが、lenovoはじつにユーザフレンドリー。ご丁寧に映像でガイドしてくれるうえに、増設の手順もきわめて簡単です。
IBMがThinkPadブランドをlenovoに売却したとき、いちばん心配だったのは、それまでのThinkPadの美点であった細やかなアフターケアがなくなってしまうのじゃないか、ということでした。
私のノートPC先代はThinkPad240という骨董品だったのですけど、ハードディスクがいかれたとき、どういう理由かは忘れましたが、無償で新しいのに変えてくれたのです。
そのとき、一生ThinkPadを使い続けるぞ、と誓ったのですが、会社がIBMからlenovoに変わって、そういう良さもなくなってしまうのではないか、と心配しておりました。
まあ、目に見えないところでいろいろ変わってるんでしょうけど、ユーザのメモリ換装をメーカーみずから推奨してしまうあたり、美点はまだまだ健在と思われます。
今回のメモリ増設に関する一件で、一生ThinkPadを使い続けるぞ、という意思は、いささかも揺らがず、むしろ強固なものになりました。
2008年6月14日
監視強化と法規制
秋葉原につづき、大阪での殺人予告。
<ネット殺人予告>大学生を事情聴取 大阪府警
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20080613-00000084-mai-soci
未然に防がれたのは、警察の対応力が上がったってことだろう。以前は、犯人特定が期日のだいぶ後だったもんね。
今後、ネットの監視強化と法規制は進むだろう。
自分が誰かを明かさず、どんな秘密も書き込める「王様の耳はロバの耳」なネットは滅んでいかざるを得ない。
法制化は致し方ないとしても、どこまで許すかを自分なりに持ってないと、とんでもないところまで禁じられることになるよ。
<ネット殺人予告>大学生を事情聴取 大阪府警
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20080613-00000084-mai-soci
未然に防がれたのは、警察の対応力が上がったってことだろう。以前は、犯人特定が期日のだいぶ後だったもんね。
今後、ネットの監視強化と法規制は進むだろう。
自分が誰かを明かさず、どんな秘密も書き込める「王様の耳はロバの耳」なネットは滅んでいかざるを得ない。
法制化は致し方ないとしても、どこまで許すかを自分なりに持ってないと、とんでもないところまで禁じられることになるよ。
2008年6月10日
2008年6月7日
広い家
500GBの外付けハードディスクを買った。
1万3千円。ほんと、安くなったものだと思う。昔は2GBの内蔵型で同じぐらいしてた筈だ。ちょっと浦島太郎な気分である。
朝からせっせとバックアップして、OSの再インストールをした。
朝9時からはじめて、6時ぐらいまでPCに向かっていた。OSの次はドライバ、ドライバの次はアプリケーション、アプリケーションの次はネットワーク設定、などとやっているとたちまちそんな時間になってしまった。凝りはじめるといい加減にできないタチなので、つまんないところにもずいぶん時間をかけた。
DELLのデスクトップマシンは新品のようにサクサク動くようになった。外付けディスクも好調である。
今は新しい家に引っ越したような気分になっている。
それにしても、500GB。広いなあ。
1万3千円。ほんと、安くなったものだと思う。昔は2GBの内蔵型で同じぐらいしてた筈だ。ちょっと浦島太郎な気分である。
朝からせっせとバックアップして、OSの再インストールをした。
朝9時からはじめて、6時ぐらいまでPCに向かっていた。OSの次はドライバ、ドライバの次はアプリケーション、アプリケーションの次はネットワーク設定、などとやっているとたちまちそんな時間になってしまった。凝りはじめるといい加減にできないタチなので、つまんないところにもずいぶん時間をかけた。
DELLのデスクトップマシンは新品のようにサクサク動くようになった。外付けディスクも好調である。
今は新しい家に引っ越したような気分になっている。
それにしても、500GB。広いなあ。
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