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2007年4月25日

歌う素人

 Youtubeで海外の音楽ビデオを眺めていると、かならず素人バンドや素人音楽家のカバー演奏にぶち当たる。

 自分がバンドで同じようなことやってるせいだと思うけど、素人バンドの演奏もけっこう、楽しく見せてもらっている。へたくそだなあ、と思うことも多いし、見るに(聞くに)耐えないことも多いが、それもふくめて楽しんでいる。こいつらいったい普段何やってんのかなあ、などと想像してみるのも楽しい。

 広いガレージみたいなところで演奏しているのを見ると、アメリカの素人バンド事情が、心底うらやましくなってくる。もしかりに、バンドの演奏能力を偏差値みたいな形で数値化することができるとして、アメリカの素人バンドと日本のそれの平均値を比べたら、アメリカは日本を大きく凌駕することだろう。いつでも寄り集まってでかい音で演奏できるアメリカと、1時間いくらでスタジオ代を支払って演奏する日本では、バンドを取り巻く環境がちがいすぎる。

 ……とここまで書いて、高校時代、自宅にスタジオがあるドラマーがいたことを思い出した。ドラムセットはむろんのこと、ギターアンプもベースアンプもボーカルマイクも室内に置いてあった。
 えらい金持ちだったから、たぶん息子がドラムをやるっていうんで親が用意したんだと思うけど、今考えるととんでもない話である。地方はあなどれないよな。


 話を戻そう。
 Youtubeで素人たちの演奏を眺めていて、「おおこりゃすごい!」と感動した映像がある。それを紹介したい。
http://www.youtube.com/watch?v=2oO-WiL9gcc

 ひとりでキーボードを弾きながらモータウン・メドレーをやっているんだけど、これがすごい。何がすごいって、たったひとりでコーラスグループの全パートを歌いこなしているのだ。
 メドレーのアタマはテンプテーションズの「I Can't Get Next to You」。ノーマン・ホイットフィールドの手になるファンク・チューンで、5人のシンガーが声色を変えて交互にリードをとる曲だが、こいつ、たったひとりでその全パートを完全コピーしてやがる。
 楽器ならわかるが、歌だぜ、歌。しかもモータウン。フォー・トップスもスモーキー・ロビンソン(&ミラクルズ!)も完璧に歌いこなしている。大した芸じゃないか。歌ってる顔が笑えるのも好感が持てる。

 背景に見えるCDの列から見て、かなりの音楽オタクだと思うけど、こいつ普段、何やってるんだろう。見た目はきわめてスクエアなので、たぶんサラリーマンかなんかだと思うんだけど、世の中には生産に役立たない才能もたくさんあるんだよなあ、と妙にしみじみしてしまう。
 もともとモータウン・ナンバーが大好きだってのもあるんだけど、選曲の良さや曲のつなぎのスムーズさもあって、何回も見てしまった。

2006年11月10日

あのね、「言論弾圧」ってね・・・

 2年ぐらい前から、mixiに加入している。
 mixiはさすが一部上場しただけのことはあって、この1年ぐらいでずいぶん機能が拡張された。

 便利なのはやはり、mixiニュースである。早い話がどこのブログでもたいがいある最新ニュース一覧なのだけれど、mixiが面白いのは、そのニュースにたいする読者のコメントが簡単に閲覧できるところだ。人々がニュースに対してどのような反応をするのか、即座に見ることができて便利である。

 ただ、この機能、幻滅させられることも多い。いや、mixiが悪いんじゃなく、ニュース読者たちのコメントがね。

 たとえば最近、「日本も核について論議すべきだ」と麻生外相が発言した問題。これにたいし、野党四党は外相の罷免を要求した。
http://www.asahi.com/politics/update/1109/012.html

 このニュース(および、この「核論議問題」に関するニュース)についての読者コメントの数々を見ていると、本当にゲンナリする。野党のふるまいにたいして、「言論弾圧だ!」なんて叫んでる連中が、じつにたくさんいるからだ。


 あのね、基本的なことを言わせてもらうよ。
「言論弾圧」というのは権力者が行うもんなの。野党がクチバシそろえて「核論議はおかしい」てなこと言ったって、それは弾圧にはならないんだよ。なぜって、やつらは権力を持ってないから。弾圧するだけの「力」がないんだ。やつらは単に、発言を批判してるだけ。

 権力者は誰が考えたって外相の方でしょ。批判って大事なんだよ。とくに、政府にたいする批判は、三権分立の考え方から言って、国会のもっとも重要な仕事のひとつなんだ。だから、国会はしっかり政府(この場合は外相)を批判しなければならない。野党が批判しなかったら、誰が批判すんのさ。

 そういう小学生の社会科レベルの知識もわきまえない連中が、妙に右傾化したようなことを口走っているのを見ると、思わず「この愚民どもが!」と言いたくなってしまう。

 いや、私も愚民のひとりですけどね。ただ、もうちょっと社会の仕組みを理解してから発言しようぜ、とは言いたいです。
 よくわかってない人の感情的な意見に流されて、日本そのものが妙な方向に行って欲しくないんだよ、俺は。

 

2006年5月31日

その名はGoodjobbs

 みなさんにオススメしたいサイトがあります。
「2ちゃんねる」みたいな総合掲示板サイトです。

Goodjobbs
http://www.goodjobbs.jp/

  2ちゃんねるというと、なにかというと「モナー」だの「逝ってよし」だの、ほとんど便所の落書きみたいな書き込みが多いことで知られていますが、当然の こと、そんな書き込みばかりではありません。情報の流通はとても早いですし、きわめて高度な議論が戦わされているスレッドも多いのです。
 ところが、せっかくの立派な議論も、「モナー」だの「逝ってよし」だのにまみれているために、十把一絡げに「くだらんもの」と見なされてしまう、という難点がありました。
 せっかくの優れた議論・意見が、ただそれだけの理由で汲み上げられることなく消えていってしまっているとすれば、さみしい話ですよね。

 Goodjobbsは2ちゃんねるのそういうところを補い、議論・意見にプライオリティを与える機能を持った新しい掲示板です。要は、優れた議論・意見と「モナー」「逝ってよし」のたぐいを峻別することができるわけです。
 そのプライオリティを決定するのもまた、掲示板の利用者という点もすごくいいと思います。画期的です。

 詳細は下記URLをご参照ください。
http://www.goodjobbs.jp/main/about_site

 
 さて、なんだって私がこんな宣伝マンみたいな文章を書いているかといいますと、このサイト、私の友人がつくったものだからです。
  つきあいはじめてかれこれ10年以上、頻繁に会ったりパッタリ会わなくなったりを繰り返し、だらだらと続く友達づきあいなんですが、この Goodjobbsに関しては、サイトオープン前に早稲田にある彼のオフィスを幾度となく訪れて、無責任な意見をあれこれ言ったりしていました。アドバイ ザーといえば聞こえはいいですけど、要するにイチャモン野郎ですね。

 そういう経緯もありまして、彼の「作品」ともいえるこのサイトには愛着もありますし、盛り上がってもらいたい、と考えております。

 所詮、掲示板サイトですから、彼がつくったのは「箱」に過ぎません。「中身」は利用者がつくるものです。
 というわけでひとつ、皆さんにもGoodjobbsを利用していただいて、「中身」の充実に協力していただきたい、と思う次第であります。
 今なら、新雪の上に足跡をつけるような、Virgin Beautyを味わうような、そんな楽しみも感じられるはず。

 是非Goodjobbsの成長を見守ってやってください。


2006年5月28日

気づかなかった

 Hotwired Japanが3月末に更新停止したらしい。

 ぜんぜん気づかなかった。昨日の記事にも平気で引用していたのに。

 誰もがダイヤルアップ接続だった時代に、過剰にデザインされたページを展開していたこのサイト(当時はハッキリいって迷惑でした)、翻訳ものの記事はたいがい面白かったし、日本人ライターによるものも、質の高いのが多かった。

 結局、時代が追いついちゃった、ということなのかしら。


2006年5月27日

ウィキペディアを考える

 仕事上、ウィキペディアにお世話になる機会はとても多い。

 ちょっとわからないことがあったり、調べ物をしたりする際、ウィキペディアはとても便利だ。単純に百科事典として重宝するばかりでなく、通常、百科事典には掲載されないような情報も、ウィキペディアには詳細に解説されているからである。
 たとえば、あるテレビドラマに関して知りたい、と思ったとき、一般の百科事典はまったく役に立たない。だが、ウィキペディアなら、ドラマの放映局、放映期間、スタッフやキャストなどについて、きわめて詳細な情報を得ることができる。場合によっては、放映時の視聴率まで掲載されていることもある。

 私がマスコミのはじっこの方で仕事をはじめた頃、こういう情報を調べるのはまことに骨が折れる作業であった。たとえば視聴率を知るためには、その手の情報が出ている新聞や雑誌の記事を探すか、しかるべき機関に依頼して問い合わせなければならなかった。そういう機関はたいがい有料なのである。要は、手間をかけるか、お金をかけるかしなければならなかったのだ。

 ところが、ウィキペディアで調べれば、そんなもんは瞬時にわかってしまう。このちがいは大きい。

 もっとも、これはいろんなところで指摘されてることなのだが、ウィキペディアの情報とは、基本的に信頼のおけないものなのである。情報の信憑性はきわめて低い。たとえば平凡社の百科事典では絶対にあり得ないようなウソが、ウィキペディアには平気で書かれているのだ。一般の百科事典の情報は鵜呑みにしたって大きな問題はないが、ウィキペディアの情報を扱う際は、眉にツバしてかかる必要がある。情報の裏づけを得るためには、結局、手間をかけるか、カネをかけるかしなければならない。それを考えると、じつは事態は数年前から一歩も進歩しておらず、むしろややこしくなっているのでは、という気さえする。

 事実、「ウィキペディアのウソ」は私も何度か発見したことがあった。その都度ログインして訂正をくわえるようにはしているが、その訂正だって、信憑性が高いとはいえない。誤った方向に改竄している可能性をぬぐい去ることはできない。

 また、情報が恣意的である、という問題もある。
 ある作家について調べたとき、こんな記事が掲載されていた。

「この作家Aは、ある新人賞で新人作家Bの作品を『たいへん優れた作品である』と激賞した」

 おそらくは、新人作家Bの熱心なファンが書いた解説文だったのだろう。作家Aの解説に、新人賞でのちょっとした発言があげられてしまっている。言うまでもないことだが、新人賞での発言など、作家Aの重要な仕事であるはずがない。百科事典の解説としては、これはきわめて不適当である。
 もっとも、不適当ではあるが、それを消そうとは思わなかった。作家Bのファンがわざわざ書き入れた一文なのだから、信憑性はきわめて高いと思われるからだ。ウソでないのなら、直す必要はない。ただ、だいぶ偏向したものにはなっているなあ、とは思うけれど。

 誰もが記事の解説者であり、誰もが記事の校正者であるというシステムは、こういうレベルの低い争いを生み出すこともある。あるポップ・スターの身長に関する記述が、タチの悪いイタズラに発展した例だ。

 ここで問題となったポップ・スターの身長が、本当は何センチなのかは、本人にあたってみないとわからない。どうだっていいことだとは思うが、どうだっていいと思っていない人がいるから、こういう争いも起こるのだろう。情報の重要性は人によってちがうのである。

 便利な反面、ウィキペディアは数多くの問題をはらんでいる。その問題は、じつは「真理とはなんぞや?」というきわめて哲学的な問題を内包しているために、とても厄介だ。問題解決の手だても目下のところ、なさそうである。

 ただ、ウィキペディアのある世界とない世界、どっちが好きですかと問われれば、私は前者が好きですと答えると思う。「誰もが記事の解説者であり校正者である百科事典」それはもしかしたら、「百科事典」のあるべき姿にむしろ近いのかもしれない、と思うからだ。