2006年12月7日

漫才にハマる(喜劇と悲劇)


 YouTubeのおかげで、すっかり漫才好きになってしまった。
 いや、以前から好きだったのだけど、都合のいい時間に気に入った芸人の気に入ったネタを見られるということが、よりこの世界にのめり込ませたね。

 大瀧詠一先生が圧倒的影響を受けたという小林信彦の『日本の喜劇人』とかも読んじゃったもの。これも、すごく面白かった。

 そういう形で過去の漫才師の伝説とかに詳しくなってくると、当然、その「伝説の芸人」たちの芸も見たくなってくるわけです。たとえば、クレイジーキャッツの映画見たりとか。エノケンやエンタツ・アチャコを見てみたいんだけど、ソースがないんだよねえ。

 そういう流れの中で、「やすし・きよしの漫才独演会」というCDを聞いた。
 やすし・きよしはたけしや島田紳助を輩出した80年代初頭の漫才ブームの最大の牽引車だったわけで。

 で、面白かったか、と問われると、「うーん」と唸らざるを得ない。ひょっとしたら「笑い」って、音楽や映画より、品質保持期限が短いのかもしれない。もっとも、チャップリンは今見てもちゃんと面白いから、一概には言えないのだろうな。この説はもうすこし研究が必要だろう。

 このCDで悲しいのは、やすしが息子の木村一八をネタにしていること(当時、一八は少年だった)。
 たぶん、可愛くてしかたなかったんだろう。親バカが透けて見える。同じ人の親としては、この親バカっぷりが身につまされるわけですよ。しかも、当の息子が目下のところ転落人生まっしぐらであることを思うと、泣けてくる。
 笑いには涙が含まれていてもいいと思うし、むしろ積極的に含むべきじゃないかとも思うけれど、この記録は残酷だねえ。


2006年12月2日

国歌の胸騒ぎ

 以下、ある人のmixi日記より無断で抜粋。
 元は2ちゃんねるからのコピぺだとか。

 これについて批評じみたことは言わずにおこう。
 でも、これを見たとき起こった嫌な胸騒ぎは忘れずにおこう。

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国歌について

・自由主義国
 アメリカ合衆国 学校での義務付け規定は特にない
 イギリス    学校行事において演奏されることはない。
 フランス    通常,学校では演奏されない。
 ドイツ     連邦に規定はなく各州に扱いは任されている。
 イタリア    通常,演奏される機会はない。
 カナダ     学校の判断に任されている。

・非自由主義国
 ロシア     学校での国歌の演奏を義務づけた法令はないが入学式等の学校行事で演奏される。
 中華人民共和国 教育部(日本の文部省に相当)の内部規定で月曜朝の斉唱が義務付けられている。
 大韓民国    入学式、卒業式等の学校行事において斉唱されている。
→日本国     入学式、卒業式等の学校行事において斉唱が厳命されている。

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2006年11月29日

最良のイジメ対処法は報復?

 呉智英がイジメについて書いたコラムを読んだ。

【コラム・断】イジメで自殺するくらいなら
http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/books/breview/29130/

 呉智英、いいよなあ。
 やられたらやりかえせ。「唯一最良のイジメ対処法は報復」とはそういうことである。呉智英のすごいところは、良識派がこぞって批判しそうなこういう理屈を、確固とした裏づけのもとに提示できるところだ。反論できるなら反論してみやがれ、という強さがある。
 文の冒頭から「識者と称する恥知らず」の「おためごかしの助言は役に立たない」と語られているとおり、仮想敵はハナっからこいつらである。いじめられっ子に助言を与えると見せて、実際は「恥知らず」たちを攻撃しているのだ。
 かりに「恥知らず」たちがこの言説に否定的な意見を述べれば、呉智英は万の言葉をもってやり返すことができるだろう。この文章は短いけれど、そういう凄みも伝わってくる。いいねえ、呉智英。

 とはいえこの文章、じつは「いじめられて自殺を選ぶような人間に報復なんざできやしない」という肝心なところから目をそむけている。報復できないからこそ自殺するのである。呉智英なら、ショーペンハウアーの自殺論ぐらい知っているだろう。人は生きる苦痛が死の恐怖にまさったとき自殺する。報復とは「生きる苦痛」を自力で排除することだ。それができるバイタリティのある人間は、自殺という手段を選択することはないのではないか。
 もっとも、それを言い出すと一切の「助言」は意味をなさなくなってしまうから、これはこれでいいのだろう。「報復せよ!」の助言で救われる子も、たぶん、いるはずだしね。

 なお、この文章を知ったのは、友人のブログからだ。なんでも2ちゃんねるで話題になってるとか。


2006年11月24日

カウチポテト・デイズ(映画印象記)

 ここのところ、DVDでけっこう映画を見ている。
 せっかく見たのだから、印象ぐらい書きつけておこう。


『天使にラブソングを2』(1993年)
 最初の作品を見ていないにもかかわらず、故あって続編を見ることに。音楽映画の決め手は所詮音楽に尽きるので、その点ではまずまずの作品だった。ティーンエイジのローリン・ヒルがとても可愛かった。年代調べてみたら、フージーズでデビューする前の作品なんだね。

『レイ/Ray』(2004年)
 レイ・チャールズの伝記映画。公開時からいいという話はほうぼうで聞いていて、親切にも絶対に見ろとまで言ってくださる方もいたのだが、結局見られなかった作品。今頃になって見てますよ、はい。
 評判どおりの作品であったとは思うけれど、それほどのめり込めなかったのは、レイ・チャールズの音楽にあまり馴染みがなかったせいかもしれない。ソウル・ミュージックは大好きなのだけど、レイ・チャールズの音楽はあんまり好きになれなかったのである。たぶんそのせいだろう、同じソウル・シンガーの伝記映画でも『ティナ』の方が興奮したなあ。アイク&ティナ・ターナー、大好きです……ってこれは『レイ』の感想でもなんでもないな。
 感心したのは、レイ・チャールズが最初に加入したドサ回りバンドは、「バンド」というよりは見せ物小屋に近いものであったこと。あらゆるシンガーのモノマネを器用にこなす盲人は、バンドの司会者をつとめていた小人と同様、存在そのものが見せ物だったのだ。そのあたりをしっかり描いているのが立派だと思った。日本で同じことをやるのはたぶん、無理だろう。あえて差別表現に踏み込むことで、身体障害者がもつハンディキャップをしっかり描くことに成功している。このシーンを作品の序盤にもってきた監督の英断と、この表現を許可したレイ・チャールズ本人(撮影中は存命だった)の懐の深さに脱帽する。

『アビエイター』(2004年)
 こちらはハワード・ヒューズの伝記映画。ちと尺が長すぎかな、とは思ったけれど、じゅうぶんに楽しめた。ディカプリオは決して好きな役者ではなく、演技に感心したこともあまりなかったんだけど、この作品で認識を改めた。いい役者さんになったなあ。四面楚歌の状況と神経症のために引き籠もりとなり、狂気に陥っていくヒューズの演技には、大いに感動した。演出のよさもむろんあると思うけれど、大根役者じゃ絶対に演じることができない内面表現を、ディカプリオは十二分にこなしていた。
 マーティン・スコセッシは「アメリカ」にどこまでもこだわっている演出家だと思う。彼は反骨の人を描くことが多いけれど、そこにアメリカにたいする愛憎が見え隠れする。


『アルフィー』(2004年)
 これも2004年の映画だけど、『レイ』や『アビエイター』とは異なり、ほとんど話題にならなかった作品。ミック・ジャガーがサウンドトラックを担当していなければ、見なかっただろう。
 ソニー・ロリンズのサントラでも有名な60年代の映画のリメイクで、プレイボーイの悲哀を描いている。主演のジュード・ロウはじつにカッコよかった。
 ミックの手になるサウンドトラックは気に入っていて、オリジナル・ソロ4作目の『ガッデス・イン・ザ・ドアウェイ』よりずっとよく聴いたのだが、果たして映像に合っていたか? と問われると首をかしげざるを得ない。映画のBGMにするには、ミックの声はアクが強すぎるんだよな。一応、映像に合わせて楽曲をつくったらしいんだが。


『子ぎつねヘレン』(2006年)
 目が見えず耳が聞こえないキツネを拾った少年の成長とそれを取り巻く人々を描く。早い話が、お涙頂戴を意図してつくられた映画である。
 お涙頂戴、嫌いではない。動物映画も同様である。だが、これはいただけなかった。たぶん、脚本がよくないんじゃないかと思う。どこで泣かせたいのかがわからない。
 目と耳が不自由なキツネ、というテーマはそれだけでとても可哀想なわけだが、人間とちがってキツネは「見えない」「聞こえない」をアピールできない。それを物語るのが獣医役の大沢たかおのセリフだけというのがいかにも説得力不足。おかげで、キツネがなんで衰弱していくのかも、なんで死ななければならないのかも、今イチよくわからなかった。理由がわからなきゃ泣けないでしょう、さすがに。
 映画を見ながら、「お涙頂戴の動物映画はハズレがないからスポンサーがつきやすい」という話をどこかで読んだことを思い出した。その連想から、『リチャードホール』でアンタッチャブルがやってた『パンダプロデューサー』というコントを思い出してしまい、ますます泣けなかった。
 パンダプロデューサーは「動物出しとけば視聴率かせげるんだから、動物出せばいいのよ!」と言って動物の奇妙な生態についてウンチクたれて、ひとりで笑う鼻つまみ者のプロデューサーだが、ひょっとして、この映画のプロデューサーも同じようなものだったんじゃないか、という気がして仕方がない。


2006年11月10日

あのね、「言論弾圧」ってね・・・

 2年ぐらい前から、mixiに加入している。
 mixiはさすが一部上場しただけのことはあって、この1年ぐらいでずいぶん機能が拡張された。

 便利なのはやはり、mixiニュースである。早い話がどこのブログでもたいがいある最新ニュース一覧なのだけれど、mixiが面白いのは、そのニュースにたいする読者のコメントが簡単に閲覧できるところだ。人々がニュースに対してどのような反応をするのか、即座に見ることができて便利である。

 ただ、この機能、幻滅させられることも多い。いや、mixiが悪いんじゃなく、ニュース読者たちのコメントがね。

 たとえば最近、「日本も核について論議すべきだ」と麻生外相が発言した問題。これにたいし、野党四党は外相の罷免を要求した。
http://www.asahi.com/politics/update/1109/012.html

 このニュース(および、この「核論議問題」に関するニュース)についての読者コメントの数々を見ていると、本当にゲンナリする。野党のふるまいにたいして、「言論弾圧だ!」なんて叫んでる連中が、じつにたくさんいるからだ。


 あのね、基本的なことを言わせてもらうよ。
「言論弾圧」というのは権力者が行うもんなの。野党がクチバシそろえて「核論議はおかしい」てなこと言ったって、それは弾圧にはならないんだよ。なぜって、やつらは権力を持ってないから。弾圧するだけの「力」がないんだ。やつらは単に、発言を批判してるだけ。

 権力者は誰が考えたって外相の方でしょ。批判って大事なんだよ。とくに、政府にたいする批判は、三権分立の考え方から言って、国会のもっとも重要な仕事のひとつなんだ。だから、国会はしっかり政府(この場合は外相)を批判しなければならない。野党が批判しなかったら、誰が批判すんのさ。

 そういう小学生の社会科レベルの知識もわきまえない連中が、妙に右傾化したようなことを口走っているのを見ると、思わず「この愚民どもが!」と言いたくなってしまう。

 いや、私も愚民のひとりですけどね。ただ、もうちょっと社会の仕組みを理解してから発言しようぜ、とは言いたいです。
 よくわかってない人の感情的な意見に流されて、日本そのものが妙な方向に行って欲しくないんだよ、俺は。

 

2006年10月20日

仏像をみる(円空と木喰)

 東京国立博物館で「特別展 仏像」を見てきた。

 もともと、仏像は好きなのだけど、今回見逃したくないと思ったのは、「宝誌和尚立像」の展示があったからである。

 宝誌和尚というのは、中国南北朝時代の実在の僧である。
 宝誌さんは、存命時からたいそう徳が高いと評判だったそうだ。それゆえ、梁の武帝は彼の肖像を残しておこうと思いたち、画家に命じて肖像を描かせようとした。ところが、画家が筆をもったとたん、和尚の顔は裂け、十一面観音の顔が現れた。観音の顔は自在に変化したので、画家はついに和尚の肖像を描くことができなかった――という伝説をもっている。

「宝誌和尚立像」は、まさにその「顔面が裂けて観音さまが顔を出した」様子をそのまんま彫刻にした変わり種で、「顔の中に顔がある」おかしな像である。はじめて写真で見たときは、その異様な姿にぎょっとしたものだ。そのとき以来、一度ホンモノを見てみたい、と思っていたのである。

 でも、期待しすぎたのかな。ホンモノは「なんだこんなもんか」であった。この手の像は、彫刻云々よりもギミックが面白いわけで、ギミックのネタが割れてしまうと、興醒めしてしまうものなのかもしれない。

 むしろ面白かったのは、円空と木喰の制作になる像であった。

 円空と木喰は、ともに江戸時代に諸国を行脚し、無数ともいえる仏像彫刻を残したことで知られている。円空が江戸時代前期、木喰は中期の人であるから、時代は若干、ずれているが、西は九州、東は開拓前の北海道にまで足を運び、あちこちに数多くの彫刻を残した点で共通しており、セットで語られることも多い。

 私は博物館が好きで、地方に行って時間ができたりするとたいがい博物館に顔を出すのであるが、この二人がつくった仏像、わけても円空仏に出会うことはきわめて多い。
 円空という人は生涯に12万体の仏像をつくることを志し、それをみごとに成し遂げたと言われており、現存するものも5千体以上あるとか。道理で、あちこちで出会うわけである。しょっちゅう「新発見された」とか言ってるから、農家の納屋とかに転がっている円空仏はまだまだあるだろう(むろん、たきぎにして燃やされたり、処分されたりした円空仏はもっともっと多いわけだが)。

 そんなわけだから、円空仏なんざまるで珍しくないのだけれども、木喰と並べて展示されると、両者のちがいがよくわかって面白かった。

 円空の目的は、とにかく「数をつくる」ことだった。なにしろ12万体つくる、という誓願を立てたのである。これをこなすためには、「うまくつくろう」とか、「丁寧につくろう」とか、考えていられない。そのへんに転がってる木っ端を使って、とにかく量産しなければならないのである。それが彼にとっての彫刻であり、仏像制作だったわけだ。
 
 今回の展示で私の目をひいた円空仏は、30センチぐらいの不動明王像である。
 明王というのは、おっかない顔をして、背中に炎を背負った仏さまであるが、その炎の部分が、まったく手をくわえていない自然の木をそのまま使って表現されている。悪い言い方をすれば、横着してサボってるのである。

 だが、これがいい。そのへんに転がってる木に仏の姿を見る円空の異様な感性が伝わってくる。たぶん円空は、「××仏を彫ろう」とあらかじめ考えて彫刻にとりかかったのではないのだろう。材料となる木の声を聞き、その木がどんな仏になりたいか、もっと言えば「木がどんな仏を宿しているか」が、モチーフを決定する決め手となっていたのだ。

 一方、木喰の方は、あらかじめ「つくりたいもの」があって、そこから素材を選定し、制作にとりかかっていたように見える。木喰は円空のように「12万体」などという大それた目標を設定していたわけではないから、彫刻制作に当たって急いでいない。像に余裕があるのである。
 木喰仏の特徴とされる柔和な表情は、ある程度、丁寧な彫り込みを必要とする。それゆえ、円空のそれのように、なにかに追い詰められたような緊張感は表現されないのだ。

 とはいえ、だから木喰作の像は面白くない、ということではない。木喰は木喰ですごく面白かった。私が気に入ったのは、「釈迦如来および迦葉尊者・阿難陀尊者像」という、釈迦とその弟子を彫ったものだった。中でも、釈迦如来像の表現には、思わず「ほう」と声を出してしまった。(写真は木喰作釈迦如来像。実際の展示とは別の像です)

 仏像は本来、彫刻家が自由につくっていいものではない。仏像には「儀軌」と呼ばれる細かなキマリがあって、それを守ってつくられなければならないのだ。
 たとえば、如来像の頭は、頭の上にもうひとつ頭があるような、二段構えになっていなければならない。髪型は例のボツボツ頭でなければならない。あれはどちらも「仏の三十二相」という如来の特徴であって、あれがなければ如来ではないのである。他にも、手に水かきをつけなきゃならないとか、腕は足より長くなきゃいけないとか、如来にはおよそ人間ばなれした特徴がたくさんある。それを守ってつくるのが「正しい如来像」なのだ。

 円空も木喰も、如来像をつくっている。だが、いずれも儀軌を大きく逸脱した像になっている。彼らは所詮、そのへんに落ちてる木を材料に、庶民のための仏像を彫っていた彫刻家だから、儀軌をきちんと守ることは不可能だったのだろう。
 ことに円空は、儀軌などハナっから存在しないかのような、アグレッシブな仏像を量産している。円空が知識人だったとは思えないし、先生についてちゃんとした彫刻修行を積んだわけでもないだろうから、彼は儀軌を知らなかった可能性が高い、と私は思う。

 一方、木喰の方は、儀軌を逸脱はするのだけれど、「一応、ある程度は気にしておこう」みたいな意識があったようだ。それが如実に表現されたのが、私がつい「ほう」と声を出してしまった釈迦如来像である。

 前述したように、釈迦如来の頭は、例のボツボツ頭でなければならない、というキマリがある。じつはあのボツボツ、髪の毛が規則正しくまとまって、右巻きに渦を巻いたさまを表現しているのだ(「螺髪」と呼ばれる)。
 木喰の釈迦如来像の頭は、きちんと右巻きに渦を巻いていた。ところが、ボツボツ頭にはなっていないのである。渦の数が極端にすくないために、「ボツボツ」とは言えないものになってしまっているのだ。
 だが、むしろそのことが、あの人間ばなれした頭も、じつは「ヘアスタイルの一種」であることを表現していた。一般の如来像の頭のボツボツは、それがヘアスタイルであることを了解するために一定の時間を要するけれど、木喰のそれは「あ、髪の毛なんだな」と即座にわかる造形なのである。
 私は仏像好きのひとりとして、仏像はけっこうな数見ているほうだと思っているけれど、あんな頭の如来像ははじめて見た。

 たぶん、木喰という人は、一種のアーティスト根性みたいなものを持っていた人だったのだろう。像から「俺がつくった仏像は他とはちょっとちがうぜ」みたいな意識が感じられる。像にハッキリした記名性があるのだ。また、デフォルメされた3Dキャラクターみたいな姿をしている木喰仏はかわいいし、女子どもに受けが良かったにちがいない。言ってみれば、作り手と受け手の間にコミュニケーションが成立する像なのである。
 円空だと、そうはいかない。現在でこそ円空仏は凄みのある芸術として評価されているけれども、当時はたぶん、「ヘタクソな造形」と認識されていたはずだ。円空自身も、自分がつくった仏像がどのように遇されるかは考えていなくて、ただひたすらに彫り続けること、それだけを考えていたのだろう。円空にとって彫刻とは芸術ではなく、宗教的な高みに登るための修行だったのである。だから、受け手のことはまったく無視されているのだ。

 こうした円空と木喰の相違には、ひょっとしたら時代性もあるのではないかな、と思った。
 俳諧だの歌舞伎だの草双紙だの、庶民芸術が発達した江戸時代中期だからこそ、木喰みたいな彫刻家も出てきたんじゃないだろうか。裏づけはまるでないけど、そんな気がする。


 いちばん良かった仏像が円空と木喰だったあたり、今回の「特別展 仏像」は、あまり大した像は展示されてなかったように思えた。むしろ、久々に見た東京国立博物館の常設展示の方が、優れた像が多かったように思う。
 私が言うことじゃないけれど、東京国立博物館の常設展示はかなりいいよ。仏像ひとつとっても、ガンダーラからはじまって、中国・朝鮮を経て日本に至り、仏像がどのような変容を経たのか実感できる。他にも、骨まで斬れそうな日本刀がズラリ並んでいたり、気が遠くなるような水墨画がいくつも展示されていたり、飽きることがない。埴輪や土偶のたぐいも充実していて、ひょっとしたら縄文人は宇宙人と交信していたんじゃないか、などというしょうもない想像も頭の中を駆けめぐる。建物も趣があっていい。

 その後、国立科学博物館で南方熊楠展化け物展を見たから、一日潰れてしまった。さすがに終日の立ちんぼはくたびれました。

 それにしても、仏像展の土産物、どうして十年一日の絵はがきだの、色紙だの、じじいばばあしか喜ばないようなもんしか置いてないのだろう。円空仏の携帯ストラップがあったら、俺は絶対買うんだけどな。若い客もたくさん来ているんだから、もっと考えればいいのに。


2006年10月6日

ヒガンバナと人の言う


 ヒガンバナが好きである。

 ヒガンバナはその名のとおり、お彼岸の前後しか咲かない。あいにく、ここのところ雨が多いけれど、ヒガンバナが咲くころは、残暑から解放されて、過ごしやすい日が続く。空気は澄んでいるし、風も乾いている。思わず、空高く馬肥ゆる、などと俗なことをつぶやきたくなる。
 そんな季節は、意味もなくそこらへんを散歩するのも案外に楽しいもんである。ふさぎがちな私のご機嫌もすこぶるよろしくなる。おそらくは、そういう季節に咲いている花だから好き、というのもあるのだろう。

 ヒガンバナの何が好きって、やはり何かしら、ミスティックなものを感じさせてくれるところだろう。彼岸花、という名前からしてこの世ならぬ世界を連想させるし、別名の曼珠沙華に至っては、字からして怖そうだ。なんでも法華経から取ったものらしいが、そういう名前をつけたくなる何物かが、あの花にはやはり、あるのである。あの毒々しい紅い花には、そういう魅力(あえて魅力といいたい)がある。桜の木の下には、なんてよく言うけれど、ヒガンバナの下に死体が埋まっていてもぜんぜんおかしくないと思う。

 ヒガンバナの生態もきわめておもしろい。そこも気に入っている。

 ヒガンバナをよく「気持ち悪い」という人がいるけれど、あれが気持ち悪いのは、ド派手な花が咲いているのに、葉が一枚もないからである。細長い茎の上に、毒々しく紅い大きな花がついている。その異常なバランスが、気持ち悪く感じられるのであろう。
 ヒガンバナの葉は、花と細長い茎が枯れ落ちてから生えてくる。ニラのできそこないみたいな、目立たない葉である。多くの人は、あの葉を見ても、ヒガンバナとは思わないだろう。だが、この目立たない葉の時代が、ヒガンバナにとって、生産の時代なのだ。やつは、周囲の植物が枯れ落ちる冬になってから葉を出して、せっせと光合成をはじめるのである。
 とはいえ、茎は花と一緒に枯れ落ちてしまっているから、光合成によって生産された養分は、成長にはほとんど使用されない。では、養分はいったいどこに行くのか。
 地下茎(球根)に貯めこんでいるのである。まわりに草のない冬の間に、やつは養分をしこたまつくって、球根を太らせているわけだ。
 冬が終わって春になると、まわりに草が生い茂ってくる。ヒガンバナの葉は地をはうように生える背の低い葉であるから、春の植物たちの、陽光を求めるはげしい競争に、勝てるようにはできていない。したがって、葉は夏になると、枯れ落ちてしまう。ヒガンバナは春から夏にかけて、土の中で眠っているのだ。他の植物たちが大いに生命を謳歌する季節に、やつは眠っているのである。これを「夏眠」と呼ぶことは、つい最近知った。
 そして、夏が終わり、秋の声が感じられる季節になると、例の毒々しい紅い花を咲かせるわけである。夏の間は光合成をしてないわけだから、花は前年の冬、球根に貯蔵されたエネルギーを使って咲く。
 植物にとって、光合成をすることが生きていることだとするならば、あの花はたしかに「死んでいる時代」に咲く花なのである。その意味で、彼岸花、というネーミングはきわめて科学的だと思う。

 さらに面白いのは、ヒガンバナの花は、生殖器ではないということである。
 世に「花」と呼ばれ、鑑賞され愛でられているもののほとんどは、生殖器である。花の色彩が美しいのも、いい匂いがするのも、すべては昆虫を呼び寄せて受粉を遂げるための機能なのだ。生物学的に「花」はそのような意味をもっている。
 にもかかわらず、ヒガンバナの花は、生殖機能が完全に失われている。よく見るとおしべとめしべらしきものはあるにはあるが、受粉して種子をつくる機能はもっていない。そもそも球根で増えるわけだから、タネをつくる必要はないのだ。
 したがって、あの花は生物学的な意味をもたない花なのである。あの毒々しい花は、なんの役割も意味ももたず、ただ咲くためだけに咲く。
「生殖機能をもたない花」「意味をもたない花」という点から考えても、彼岸花、というネーミングはきわめて科学的だと思う。

 ヒガンバナの花は毒々しい。その毒々しさは、生殖とは関係のない、こけおどしの毒々しさである。でも、ひょっとしたらあの花には、警戒信号の役割があるのかもしれない。なにしろ、やつは球根に毒をもっているのだ。やつにとっては球根が命だから、モグラなんぞにかじられたらたまらんわけである。そのための毒である。
 毒をもつ動物は、カラーリングが派手なやつが多い。毒トカゲだの、毒蝶だののたぐいは、たいがい派手な色をしている。派手な色彩と毒を捕食者にセットで記憶してもらって、身を守るためである。ひょっとしたら、ヒガンバナのあの毒々しさには、そういう意味があるのかもしれない。
 しぶといなあ、と思う。そのあたりのしぶとさも、私がヒガンバナを好きな理由のひとつになっている。

 ヒガンバナは生殖機能を失っているため、すべての花(株)は遺伝子的に同じ構造をもっている。要は、あんなにたくさんあるのに、ぜんぶ同じ遺伝子を持っているのである。うまく言えないが、これはものすごいことだと思う。空恐ろしい、とさえ思う。あの毒々しい花とセットにすると、戦慄に近いものを覚える。すげえ。

 そういう感慨を持たせてくれる花は、ヒガンバナだけである。


2006年9月9日

Time Waits for No One


 たいへんに忙しい。
 9月から12月まで、月刊状態で本をつくっている。そのすべてを私が書くわけじゃないが、半分以上は私が書いている。書くだけじゃなくて、企画だの、取材だの、レイアウトだの、入稿だの、校了だの、部決の打ち合わせだの、編集作業もすべてこなしている。誰もほめてくれないけど、自分ではよくやっていると思っている。おかげさまで休みがぜんぜんない。

 まあ、休んだところで大したことをするわけじゃないから、これはこれでいいんだろう。仕事があるってことはいいことさ。俺、仕事好きだし。
 ただ残念なのは、いろいろ書きたいことがあるのに、書けないってことである。暇がまるでねえ。

 私はプロ野球を見るがごとく政治を眺めるのを趣味としている。ここんとこ、政治はすごく面白いから、言いたいこと・書きたいことがたくさんある。昭和天皇の靖国メモが発見されて、それでもキッチリ終戦記念日に靖国参拝した小泉について語りたい。集団的自衛権を認めるべしと鼻息を荒くする安倍についても語りたい。安倍の爺さん・岸信介についても、一時期ずいぶん本を読んだから、この機会にウンチクを傾けておきたい。でも、時間はない。

 もっと卑近なことでも語りたいことはある。ムリヤリにとった夏休みに実家に三泊したときのこと。昼間は餓鬼と遊び、夜は仕事をした。眠かったなあ。父や母、弟にはいつも以上に世話になった。

 我がバンド、ミラクルズがブログを立ち上げた。かれこれ4年もやってるバンドであるから、そろそろ音源を世界に配信してもいいと思ったのだ。でも、これも手つかずのまんまである。いろいろやりたいことはあるんだけどな。

 誰も読まなくたって書き続けるぞ、と意気込んでいるロック名盤紹介ブログも、6月にキングス・オブ・レオンについて書いて以来、更新できていない。次はヴァン・モリソンかニール・ヤング、もしくはエアロスミス、ああジミー・クリフやコモンもいいな、などと思っているのだが、思っているだけで書く時間がとれぬ。やれやれである。

 知人に、貴様は小説を書くべきだと勧められ、春先につむぎはじめた物語。頭の数章を書いて好評を博し、いい気になったので続けたいのだが、そのまんまになっている。情けない話である。

 要は、時間がねえんだよ。ほんとは、こんな愚痴を書いている暇だってないはずなんだ。でも、愚痴ぐらいいいじゃないか。許してくれよ。

 広い広い海を泳いでいる。そろそろ甲羅干しをしたいのだが、陸はまだ見えない。

 眠いぜくそったれ。


2006年8月17日

椰子の木の次は……

 9月からはじまるローリング・ストーンズの北米ツアー。ボストン・ニュージャージーではカニエ・ウェスト、バンクーバーとオークランドではなんと、ヴァン・モリソンが前座に起用されるらしい。

 豪華じゃねえか北米、うらやましいぞ、と思っていたらこんなニュース。

ストーンズ公演また中止 今度はミックの声が出ず
http://www.asahi.com/culture/update/0815/001.html

 椰子の木から落っこちた人がこないだ復活したばっかりなのに……。

2006年8月7日

未熟な、あまりに未熟な

 小学1年生の餓鬼との朝の会話。
 テレビでイスラエルのレバノン空爆のニュース。
 瓦礫に埋もれた家。

「これ、地震?」
「いや、これは戦争だよ」

 餓鬼はそれ以上、聞こうとはしなかった。一心にテレビの画面を見ていた。
 私もそれ以上、語らなかった。

 子どもに見せるには、あまりに未熟な世界情勢。
 大の大人がなにをやってやがる。


2006年6月30日

漫才な日々

 最近youtubeが流行ってるようですが、私もついついハマっております。

 とくにハマってるのが、漫才。笑い飯や南海キャンディーズ、麒麟と言ったところを見て、ひとりでケタケタと笑っています。いい時代になったもんです。

 FLVファイルって、保存できるんですよね。
 これ、かなり便利です。

【Download videos】
 URLコピー+ペーストでFLVファイルがダウンロードできる。
http://javimoya.com/blog/youtube_en.php#

【Riva FLV Player】
 シンプルで使いやすいFLV動画プレイヤー。ダウンロードして見れば、接続のストレスもありません。
http://www.rivavx.com/index.php?downloads&L=3



2006年6月24日

世界最長寿の動物、逝く


 世界最高齢の動物としてギネスに登録されているカメが死んだそうです。
 享年175歳。

世界最高齢175歳のカメ死亡 オーストラリア
http://www.asahi.com/international/update/0624/004.html

 亀は万年といいますが、百年以上生きていれば人間の一代ではその死が確認できないわけで、「万年」といわれた理由がわかりますな(ちなみに鶴の寿命は50~80年)。

 でも、所詮はリクガメ、陸生動物だから記録できるので、海にはもっと長寿の動物がいると思うよ。でかいイカとかさあ。やっぱ、そのぐらいの浪漫がないとね!

 ……て、どうでもいいことを書いているのはたぶん疲れているからです。

 写真はガラパゴスゾウガメ。175年生きたのはこれと同種だそうです。


2006年6月19日

首相候補はカルト宗教?

 あまり信じたくないのだが、安倍晋三と統一協会とのつながりが指摘されている。

安倍官房長官が統一教会系集会に祝電
http://www.nikkansports.com/general/f-gn-tp0-20060619-48487.html

 弁護士連絡会が参議院議員会館で記者会見を開いたというんだから、信憑性はかなり高いだろう。じっさい、「安倍 統一協会」でググッてみると、出るわ出るわ。どうも本当らしい。

 しかも、祝電送った先って、あの悪名高き合同結婚式だぜ。
 こんなのに次期首相になって欲しくないなあ。

 それにしても、どういうつながりなんだ? ……と思って調べてみると、どうやら爺さんの岸信介の頃からのつながりらしい。ウィキペディアにその記述がある。しかも、福田赳夫・中曽根康弘・金丸信・安倍晋太郎(これは当然か)・山崎拓との関わりも指摘されている。

 これ、派閥またがってますよ。自民党と統一協会のつながりは相当根深いと見ていいだろう。
 それだけ根深いんなら、今更やめろと言ってもやめられんだろうが、やっぱりちょっとイヤ、ですよね?



追記:
 ウィキペディアの情報は鵜呑みにしてはならないとは思っているけれど、この項目に関しては相当議論されているようなので、信用してもいいように思う。


2006年6月15日

演説執筆者の辞任

 ブッシュの「悪の枢軸」演説を執筆したライターが辞任したとか。

ブッシュ「悪の枢軸」演説ライター、ガーソン氏辞任へ
http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20060615i303.htm

 ちとうらやましいのは、こうした演説のライターまできちんと公表されていること。
 我が国では総理もふくめて内閣の演説・答弁はたいがい霞ヶ関で書かれておりますが、いったい誰が書いたのやら、さっぱりわかりません。

 おそらくはこのライター辞任劇はなんかの責任をとって、というようなことだと思うんですが、霞ヶ関には「責任」がまるでないんだよね。誰だかわかんないんだもん。

 たぶん、出来の悪い演説原稿を書いた人間は出世できないだろうけど、やつらは天下りすりゃいいだけの話だしなあ。


2006年6月14日

「電撃」訪問の理由

 ブッシュ、とつぜんのイラク訪問。

ブッシュ米大統領、イラクを電撃訪問 治安対策を協議
http://www.asahi.com/international/update/0613/012.html

 
 上記記事によれば「内外に『成果』をアピールするねらいがあるとみられる」とのこと。

「成果」とはいうまでもなく、イラク戦争の「成果」である。
 ブッシュとしては、できるかぎり早くアピールしたかっただろう。だが、おいそれとはアピールできない事情があった。

 まがりなりにも新政府はできた。でも、イラクは内戦状態になってしまっている。医師をふくめた知識人の虐殺・国外脱出も後を絶たないそうだ。
 これを「成果」と呼んでいいものか。ふつうは呼ばないわな。それで、「アピール」は延び延びになっていた。

 いいタイミングで、ザルカウィがつかまった。しかも後腐れなく殺された。「アピール」するならここしかない。
 それゆえの、イラク訪問である。
 
 とはいえ、前もって「行く」などと言おうものなら、暴動が起こる。
 それゆえの予告なし、「電撃」訪問である。

 滞在時間は5時間。
 一晩でも泊まれば、危険は高まる。
 暴動で済めばまだいい。命を狙われないともかぎらない。

 それゆえの、5時間である。

 たった5時間、予告なしの訪問しかできない国で、いったいなんの「成果」をアピールするのだろう。


2006年6月10日

Trackbackとは何ぞや?

 昨晩、本ブログにトラックバック機能を導入した旨を書きましたところ、「トラックバックってよくわからん」というコメントをいただきました。

 たしかにわかりにくいんですよね。じつは、この質問受けたのってはじめてじゃないのです。
 私の周囲にも、ブログを運営している友人・知人はかなり増えているのですけど、トラックバックを有効活用している人は見あたりません。かくいう私も、ぜんぜん有効活用できておりません。

 というわけで、ちょっとトラックバックについて書いてみようかと思います。とはいえ、有効活用できていない私が述べたって説得力がないですから、説得力ある論説のリンクを張ってみようと思います。

 まず、「トラックバックとは何ぞや?」に関しての丁寧な説明としては、下記がオススメです。

トラックバックとは?
http://www.blogtowa.jp/archives/8739784.html

 ビジネスブログ本の著者による平易な解説です。私はしてませんが、トラックバックの練習までさせてくれるみたい。



 私もブログというメディアとつきあいはじめてかれこれ2年になりますが、ブログの数ある機能のうち、もっとも「新しい匂い」がしたのは、トラックバックという機能でした。
 ただ、凡人の悲しさか、「新しい匂い」を感じ取れても、なぜ「新しい」のかというところまでは説明できなかったのです。
 そのもどかしさにある解答を与えてくれたのが次の記事。思想家・宮台真司氏の「自己責任騒動」に関する論説です。たしか、もともとは雑誌「SIGHT」に掲載されたもので、私もそこで読んだものと思いますが、宮台氏は自己のブログにもアップされています。

右翼思想からみた、自己責任バッシングの国辱ぶり
http://www.miyadai.com/index.php?itemid=98

 
 自己責任騒動それ自体、相当古いものですからピンとこないかもしれませんが、文章の最後の方にある「2ちゃんを見ずにブログを見よ」という言説には大いに納得し、我が意を得たりと思ったものです。

 たしかにあのとき、(匿名ではない)ネットのオピニオンは「自己責任なんておかしいよ!」という方に傾いていました。私もそのクチで、当時こんな記事を書いています。これ、なんか知らないけどムチャアクセスが多かった記事です。

国よ、アホを守れ
http://ameblo.jp/goatsheadsoup/entry-10000011460.html

 私もブログをはじめたばっかりで、かなり熱を入れて書いています。「好き勝手書ける」ことが相当おもしろかったみたいです。


Trackback導入!

 当ブログ「GOATS HEAD SOUP/山羊の頭のスープ」も、ついにトラックバック・システムを導入いたしました。
 同時に、兄弟サイトの名盤紹介ENDLESS HIGHWAYにも装備。
 ようやくマトモなブログになりつつあります。

 トラックバックって、じつはブログ最大の魅力ではないかと思っているのですが、残念ながら「旧・山羊の頭のスープ」時代から、ほとんど活用できておりません。

 関連記事を検索して、せっせとTrackback Pingを送るって、やっぱマメじゃないとできないよなあ。


2006年5月31日

その名はGoodjobbs

 みなさんにオススメしたいサイトがあります。
「2ちゃんねる」みたいな総合掲示板サイトです。

Goodjobbs
http://www.goodjobbs.jp/

  2ちゃんねるというと、なにかというと「モナー」だの「逝ってよし」だの、ほとんど便所の落書きみたいな書き込みが多いことで知られていますが、当然の こと、そんな書き込みばかりではありません。情報の流通はとても早いですし、きわめて高度な議論が戦わされているスレッドも多いのです。
 ところが、せっかくの立派な議論も、「モナー」だの「逝ってよし」だのにまみれているために、十把一絡げに「くだらんもの」と見なされてしまう、という難点がありました。
 せっかくの優れた議論・意見が、ただそれだけの理由で汲み上げられることなく消えていってしまっているとすれば、さみしい話ですよね。

 Goodjobbsは2ちゃんねるのそういうところを補い、議論・意見にプライオリティを与える機能を持った新しい掲示板です。要は、優れた議論・意見と「モナー」「逝ってよし」のたぐいを峻別することができるわけです。
 そのプライオリティを決定するのもまた、掲示板の利用者という点もすごくいいと思います。画期的です。

 詳細は下記URLをご参照ください。
http://www.goodjobbs.jp/main/about_site

 
 さて、なんだって私がこんな宣伝マンみたいな文章を書いているかといいますと、このサイト、私の友人がつくったものだからです。
  つきあいはじめてかれこれ10年以上、頻繁に会ったりパッタリ会わなくなったりを繰り返し、だらだらと続く友達づきあいなんですが、この Goodjobbsに関しては、サイトオープン前に早稲田にある彼のオフィスを幾度となく訪れて、無責任な意見をあれこれ言ったりしていました。アドバイ ザーといえば聞こえはいいですけど、要するにイチャモン野郎ですね。

 そういう経緯もありまして、彼の「作品」ともいえるこのサイトには愛着もありますし、盛り上がってもらいたい、と考えております。

 所詮、掲示板サイトですから、彼がつくったのは「箱」に過ぎません。「中身」は利用者がつくるものです。
 というわけでひとつ、皆さんにもGoodjobbsを利用していただいて、「中身」の充実に協力していただきたい、と思う次第であります。
 今なら、新雪の上に足跡をつけるような、Virgin Beautyを味わうような、そんな楽しみも感じられるはず。

 是非Goodjobbsの成長を見守ってやってください。


2006年5月29日

池袋ウエストゲートパークとジミヘン


 石田衣良の『池袋ウエストゲートパーク』をようやく読み終わった。
 
 なぜ今頃? とか、あんなさらっと読める小説をどうして「ようやく」? とかは、説明すれば説明できるけど、些末なことだからやめておこう。

 この小説がきわめて優れたエンターテインメント作品であることも、私がここでくどくど述べ立てなくてもいいだろう。たとえばAmazonのレビューに掲載された読者の方々の絶賛の嵐を見ていただければじゅうぶんだ。自信をもってオススメできる、とても良質なハードボイルド・ミステリーである。

 最近、小説とか映画とかマンガとかに接すると、たいがい「おもしろいなあ」「すごいなあ」と感心しているような気がする。単純に選ぶものに当たりが多いのか、私の価値判断の基準が甘くなったのか、定かじゃないけれど。前者だと思いたいけどね。

 ただ、ひとつだけ、ケチをつけたい。

 作者はたぶん、クラシック音楽のファンなのだろう。私は未読だけれど、ちょっと恥ずかしいタイトルのモーツァルトに関する著書もあるぐらいだ。
 でも、池袋にたむろする若者たちの青春群像を活写するためには、クラシックだけじゃ弱いんだよね。作者はそれもわかっていて、時折ロックのタームも入れている。その使い方もすごくうまくて、かなり感心したんだけどさ。
 でも、ロック・ファンとしては許し難い事実誤認がひとつ。

 ジミ・ヘンドリックスの名曲「エンジェル」はアルバム『エレクトリック・レディ・ランド』には収録されておりません。

 きたねえ手で俺のジミヘンにさわるんじゃねえよ、ろくすっぽ聴いたこともねえくせに!
 ……とか、そこまで言うつもりはございませんが、版を重ねるときは訂正してほしいもんである。ストーリーのテーマにも関わってくる、大事な曲じゃないの。

 とはいえ、私が読んだのは文庫版でもう18刷(!)。
 手遅れだな。
 たぶん、まちがって『エレクトリック・レディ・ランド』を買った馬鹿が何人かいるだろう。まあいいか、名盤だし。

 

2006年5月28日

気づかなかった

 Hotwired Japanが3月末に更新停止したらしい。

 ぜんぜん気づかなかった。昨日の記事にも平気で引用していたのに。

 誰もがダイヤルアップ接続だった時代に、過剰にデザインされたページを展開していたこのサイト(当時はハッキリいって迷惑でした)、翻訳ものの記事はたいがい面白かったし、日本人ライターによるものも、質の高いのが多かった。

 結局、時代が追いついちゃった、ということなのかしら。


2006年5月27日

ウィキペディアを考える

 仕事上、ウィキペディアにお世話になる機会はとても多い。

 ちょっとわからないことがあったり、調べ物をしたりする際、ウィキペディアはとても便利だ。単純に百科事典として重宝するばかりでなく、通常、百科事典には掲載されないような情報も、ウィキペディアには詳細に解説されているからである。
 たとえば、あるテレビドラマに関して知りたい、と思ったとき、一般の百科事典はまったく役に立たない。だが、ウィキペディアなら、ドラマの放映局、放映期間、スタッフやキャストなどについて、きわめて詳細な情報を得ることができる。場合によっては、放映時の視聴率まで掲載されていることもある。

 私がマスコミのはじっこの方で仕事をはじめた頃、こういう情報を調べるのはまことに骨が折れる作業であった。たとえば視聴率を知るためには、その手の情報が出ている新聞や雑誌の記事を探すか、しかるべき機関に依頼して問い合わせなければならなかった。そういう機関はたいがい有料なのである。要は、手間をかけるか、お金をかけるかしなければならなかったのだ。

 ところが、ウィキペディアで調べれば、そんなもんは瞬時にわかってしまう。このちがいは大きい。

 もっとも、これはいろんなところで指摘されてることなのだが、ウィキペディアの情報とは、基本的に信頼のおけないものなのである。情報の信憑性はきわめて低い。たとえば平凡社の百科事典では絶対にあり得ないようなウソが、ウィキペディアには平気で書かれているのだ。一般の百科事典の情報は鵜呑みにしたって大きな問題はないが、ウィキペディアの情報を扱う際は、眉にツバしてかかる必要がある。情報の裏づけを得るためには、結局、手間をかけるか、カネをかけるかしなければならない。それを考えると、じつは事態は数年前から一歩も進歩しておらず、むしろややこしくなっているのでは、という気さえする。

 事実、「ウィキペディアのウソ」は私も何度か発見したことがあった。その都度ログインして訂正をくわえるようにはしているが、その訂正だって、信憑性が高いとはいえない。誤った方向に改竄している可能性をぬぐい去ることはできない。

 また、情報が恣意的である、という問題もある。
 ある作家について調べたとき、こんな記事が掲載されていた。

「この作家Aは、ある新人賞で新人作家Bの作品を『たいへん優れた作品である』と激賞した」

 おそらくは、新人作家Bの熱心なファンが書いた解説文だったのだろう。作家Aの解説に、新人賞でのちょっとした発言があげられてしまっている。言うまでもないことだが、新人賞での発言など、作家Aの重要な仕事であるはずがない。百科事典の解説としては、これはきわめて不適当である。
 もっとも、不適当ではあるが、それを消そうとは思わなかった。作家Bのファンがわざわざ書き入れた一文なのだから、信憑性はきわめて高いと思われるからだ。ウソでないのなら、直す必要はない。ただ、だいぶ偏向したものにはなっているなあ、とは思うけれど。

 誰もが記事の解説者であり、誰もが記事の校正者であるというシステムは、こういうレベルの低い争いを生み出すこともある。あるポップ・スターの身長に関する記述が、タチの悪いイタズラに発展した例だ。

 ここで問題となったポップ・スターの身長が、本当は何センチなのかは、本人にあたってみないとわからない。どうだっていいことだとは思うが、どうだっていいと思っていない人がいるから、こういう争いも起こるのだろう。情報の重要性は人によってちがうのである。

 便利な反面、ウィキペディアは数多くの問題をはらんでいる。その問題は、じつは「真理とはなんぞや?」というきわめて哲学的な問題を内包しているために、とても厄介だ。問題解決の手だても目下のところ、なさそうである。

 ただ、ウィキペディアのある世界とない世界、どっちが好きですかと問われれば、私は前者が好きですと答えると思う。「誰もが記事の解説者であり校正者である百科事典」それはもしかしたら、「百科事典」のあるべき姿にむしろ近いのかもしれない、と思うからだ。


2006年5月25日

移転の理由

 一昨年の10月から足かけ2年間、Ameba Blogにお世話になったのだけれど、このたび、わたくしが日々の駄文をつらねるブログ「山羊の頭のスープ」を、Bloggerに移転することにした。

 Amebaを離れることにしたのは、いくつか理由がある。

1, スパム・コメントが不愉快だった(これがいちばん大きい)

2, 接続しにくい・接続しないことがあり、ストレスがたまった

3, デザイン・テンプレート(スキン)で使いたいものがなくなった

 移転の理由としてはじゅうぶんだと思うんだが、どうだろう?


 移転先はあちこち物色してみた(主にcocologとseesaa)のだが、結局以前からアカウントを持っていたBloggerに落ち着いた。

 Bloggerはひとことでいうと、すごく不親切なブログ・サイトである。

 Bloggerが提供するのは、必要最低限のシステムだけだ。デフォルトではトラックバックを受け付けることもできないし、記事のカテゴリ分類もできない。それらは、いちいちHTMLをいじって、ユーザが独力で構築していかなければならないのである。

 だが裏をかえせば、それはユーザの自由度が高いということでもある。じつは、このサイトのサイド・バーも、私がちまちまHTMLをいじって設定したものなのだけど、こういうことは、Amebaではできなかった。おかげさんで、覚えるつもりはなかったのに、HTMLのタグをいくつか、覚えてしまった。
 面倒くさいことは大嫌いなくせに、一度ハマるとひたすら熱心にやってしまう性格ゆえ、これがけっこう楽しかったりした。ひょっとしたら、もっとハマるかもしれないし、早々に飽きるかもしれない。まあ、楽しいうちはいろいろやってみようと思っている。

 Bloggerには、余計な機能(例:ブログ・ランキングを表示したり、カレンダーを表示したりする機能)がない。さみしいぐらいになにもない。さらに、企業広告がない。それゆえ、見た目がシンプルでとてもすっきりしている。そこがいちばん気に入っている。


2006年5月23日

山羊の頭のスープ・旧館

山羊の頭のスープ・旧館はこちら

http://goatsheadsoup.ameblo.jp/