さいきんはネット用語がいつのまにか市民権を得たかのようにネット以外のメディアで使われはじめたりするから、ついていくのが大変だ。
某巨大掲示板とかをしょっちゅう見てる人ならとうに了解済みのことでも、こっちははじめて聞く言葉だったりする。
ずいぶん前だが、orzというのがわかんなくて、その方面に詳しい友人に聞いた。意味と用法を聞いて、なーるほどねと思った記憶がある。
今日は「喪」という言葉に出くわした。喪。なんじゃらほい。こうなると、もう気分は盆栽老人である。
調べて、意味がわかった。ふーんと思った。
ネットで新しい言葉が生まれるのを否定するつもりはない。
閉じたコミュニティ(仲のいい友達どうしとか、サークルとか)ではどんなところでも仲間内にしかわからない符丁が使われるものだ。ネットの場合は、それがミョーな形で開かれてるから「仲間内」と「外」の区別があいまいになってしまう。
さらに、閉じたコミュニティとはちがって、言い出しっぺが誰なのか、皆目見当がつかない、という特徴もある。
まあ、これはそういうもんなんだから、そういうもんだと受け止めるしかないのである。
ネットの普及によって、多くの人が自分のメディアをもち、語るようになった。情報のほとんどがマスコミから一方的に与えられた旧・世界よりも、おもしろい世界になっているんじゃないか、と個人的にはおもっている。
たぶん、「文章を書く」ことを習慣にしている人の数も、統計をとれるもんじゃないから本当のところはわからないけれど、増えていると思われる。
でも、どうなんだろ? 一般の人の「民度」といいますか、知的レベルというのは、反対に下がってるんじゃなかろうか。
まっとうな校正を経た文章は学校の教科書しか知らず、その教科書はロクに読んでなくて、あとはネットで流通するテキストを読む。たいがいは友人知己のブログやら某巨大掲示板やらに記載された文章を読む。
そうなると、「まっとうな文章」にふれる機会ってないんだよね。
まあ、何がまっとうで何がまっとうでないかの区別に関しては定義が必要だし、それを定義づけようとするとややっこしいことになるからしないけれど、ときどき、何が言いたいのかサッパリわからない文に出会ったりすると、そういうことを思う。
私は仕事がら、「ライター」と称する若い連中の文章を読むこともあるんだけど、あまりのひどさに頭痛がしてくることがある。
あのね、文章というものは、コミュニケーションに向かってるものなのよ。あなたひとりに理解できたって、他人に理解できなきゃ意味ないの。
まあ、マスコミ周辺の「ライター」とか「デザイナー」なんて、資格試験も入社試験もなくて、ただ自分で「ライター」とか「デザイナー」とか言えばなれちゃうイージーな職業だから、こういう人は昔からいたんだろうな、とは思うんだけど。
ひょっとしたら、ネットの影響もあるんじゃなかろうか、とも思うわけです。
もっとも、これだって調査できるこっちゃないから(どっかの独立行政法人にでもやってもらうほかない)、ほんとのところはわかりませんけど。
2008年9月13日
2008年6月22日
秋葉原殺傷事件を考える <1>
秋葉原殺傷事件に関しては、ずいぶんいろんなことを考えさせられました。
犯人である「彼」の携帯サイトへの書き込みも熟読してしまいましたし、現在も報道のひとつひとつに、強い興味をもって接しています。正直、ゲンナリしてしまうことが多いので、精神衛生上よろしくないことはよくわかっているのですが、どうしてもやめることができません。
どうしてこれほどに強い関心を抱いたかといえば、ひとえに「彼」が、犯行に至るまでの心情を、つぶさに記録し、公開していたためだと思います。
すこし広い視点をもてば、無差別大量殺人というのは、洋の東西を問わず、頻繁に起こっているものだということを知ることができます。有名なものに、横溝正史の『八つ墓村』のモデルになったといわれる津山三十人殺しや、コロンバインの銃乱射事件があります。
その視点に立ってみれば、「彼」の犯行はとくに珍しいものではありません。
だが、「彼」ほどに、犯行動機を世間の目にさらし、犯行に至るまでの自己の心情を執拗に綴った殺人者はいなかった。犯行後に手記を残す殺人者は多いでしょうが、犯行前にそれをやった者は、私の知るかぎりいません。その意味で、「彼」は特別な存在なのです。
とはいえ、私が自分でもちょっと異様と思えるほどに事件に興味をもってしまったのは、単に「彼」が残した心情吐露がめずらしかったから、だけではなかったと思います。
「彼」が通ったのと同じ道を、かつて自分も通ったことがある。
そんな気がしたからです。「彼」の書き込みを熟読しながら、そこに綴られている言葉のひとつひとつに身をゆだねているうちに、私はそのことに気づきました。誤解を恐れずに言えば、私が「彼」でもおかしくなかったのです。
とはいえ、私は過去に「彼」と同じような犯罪を犯したわけではありませんし、犯行を考えたことすらありません。ただ、同じように世をすね、疎外感を感じていたことがあるだけです。
同じようなココロの動きをしていたはずなのに、「彼」は殺人鬼となり、自分はならなかった。その相違はどこにあるのか。私はずいぶん、そのことを考えました。
安全に暮らしていくためにも、私たちは「彼」のような人間を二度と世に出さないよう努めていかなければなりません。それが社会人の、大人のつとめです。いったいどうしたら「彼」に犯行を思いとどまらせることができるか、という問いは、私に「どうして自分は殺人鬼にならなかったのか」を考えさせることになりました。
「彼」に犯行をやめさせる方法は、すぐに考えつきました。すごく単純なことなのです。
「彼」はみごとな五七調をもって、こう綴っています。
「彼女がいない、ただこの一点で人生崩壊」
彼女さえいれば、「彼」は犯行に至らなかったでしょう。だから、「彼」に犯行をやめさせるためには、「彼」に恋人をつくってあげればいいのです。だが、これが難しい。
「彼」に恋人ができないのは、まわりにいる女性が悪いわけではありません。「彼」自身が悪いのです。それも、「彼」の容姿がふるわないためではない。「彼」の写真を見るとわかりますが、顔立ちは悪くなく、むしろ端正なほうだといえるでしょう。どうやら若ハゲみたいですが、こんなもんは隠そうと思えばどうとでもできますし、開き直ってしまえば気になるほどのもんでもないと思います。
「彼」に恋人ができなかったのは、「彼」みずからが可能性を閉ざしていたためです。じつは、私が「同じ道を通ったことがあるなあ」と感じるのも、このあたりのように思うのですが、長くなるので、また日をあらためて綴ることにいたします。
犯人である「彼」の携帯サイトへの書き込みも熟読してしまいましたし、現在も報道のひとつひとつに、強い興味をもって接しています。正直、ゲンナリしてしまうことが多いので、精神衛生上よろしくないことはよくわかっているのですが、どうしてもやめることができません。
どうしてこれほどに強い関心を抱いたかといえば、ひとえに「彼」が、犯行に至るまでの心情を、つぶさに記録し、公開していたためだと思います。
すこし広い視点をもてば、無差別大量殺人というのは、洋の東西を問わず、頻繁に起こっているものだということを知ることができます。有名なものに、横溝正史の『八つ墓村』のモデルになったといわれる津山三十人殺しや、コロンバインの銃乱射事件があります。
その視点に立ってみれば、「彼」の犯行はとくに珍しいものではありません。
だが、「彼」ほどに、犯行動機を世間の目にさらし、犯行に至るまでの自己の心情を執拗に綴った殺人者はいなかった。犯行後に手記を残す殺人者は多いでしょうが、犯行前にそれをやった者は、私の知るかぎりいません。その意味で、「彼」は特別な存在なのです。
とはいえ、私が自分でもちょっと異様と思えるほどに事件に興味をもってしまったのは、単に「彼」が残した心情吐露がめずらしかったから、だけではなかったと思います。
「彼」が通ったのと同じ道を、かつて自分も通ったことがある。
そんな気がしたからです。「彼」の書き込みを熟読しながら、そこに綴られている言葉のひとつひとつに身をゆだねているうちに、私はそのことに気づきました。誤解を恐れずに言えば、私が「彼」でもおかしくなかったのです。
とはいえ、私は過去に「彼」と同じような犯罪を犯したわけではありませんし、犯行を考えたことすらありません。ただ、同じように世をすね、疎外感を感じていたことがあるだけです。
同じようなココロの動きをしていたはずなのに、「彼」は殺人鬼となり、自分はならなかった。その相違はどこにあるのか。私はずいぶん、そのことを考えました。
安全に暮らしていくためにも、私たちは「彼」のような人間を二度と世に出さないよう努めていかなければなりません。それが社会人の、大人のつとめです。いったいどうしたら「彼」に犯行を思いとどまらせることができるか、という問いは、私に「どうして自分は殺人鬼にならなかったのか」を考えさせることになりました。
「彼」に犯行をやめさせる方法は、すぐに考えつきました。すごく単純なことなのです。
「彼」はみごとな五七調をもって、こう綴っています。
「彼女がいない、ただこの一点で人生崩壊」
彼女さえいれば、「彼」は犯行に至らなかったでしょう。だから、「彼」に犯行をやめさせるためには、「彼」に恋人をつくってあげればいいのです。だが、これが難しい。
「彼」に恋人ができないのは、まわりにいる女性が悪いわけではありません。「彼」自身が悪いのです。それも、「彼」の容姿がふるわないためではない。「彼」の写真を見るとわかりますが、顔立ちは悪くなく、むしろ端正なほうだといえるでしょう。どうやら若ハゲみたいですが、こんなもんは隠そうと思えばどうとでもできますし、開き直ってしまえば気になるほどのもんでもないと思います。
「彼」に恋人ができなかったのは、「彼」みずからが可能性を閉ざしていたためです。じつは、私が「同じ道を通ったことがあるなあ」と感じるのも、このあたりのように思うのですが、長くなるので、また日をあらためて綴ることにいたします。
2007年11月17日
戦争博物館をつくろう
靖国神社に参拝し、遊就館を見学してきた。
今まで、行ったことがなかった。はじめて行ったのである。
遊就館はバリバリの皇国史観による陳列が行われていると聞いていたのだが、思っていたよりずっとマトモだったので少々拍子抜けした。もっとすごいのを想像していたのだ。
むろん、首をかしげたくなる展示はたくさんあった。見ながらけっこうツッコミ入れてたから、やっぱり偏っていた、というべきなんだろうな。
日露戦争を扱った映像では、大本営発表もかくやと思われるほどに、日本の(ナレーターは「我が国の」と語っていた)戦勝をはなばなしく喧伝していた。
乃木大将の旅順攻撃がいかに無謀な作戦だったかとか、日本海海戦で連合艦隊がバルチック艦隊に勝てたのはいくつかの幸福な偶然(いい言い方をすれば、「読み」が当たった)に支えられていたことなど、大日本帝国の戦意昂揚に役立たないような情報は一切、語られない。日露戦争で日本が疲弊しきっていたことさえ、ひとことの説明もない。あの調子じゃ日比谷焼き討ち事件は再発しちゃうよ。
大東亜戦争は日露戦争より戦争指導者がずっとアンポンタンになっているから、ツッコミどころはたくさんあるだろうに、やはり一切述べられていない。
あの悪名高きインパール作戦ですら、「退却を余儀なくされた」としか語られてないのだ。戦死じゃなくて餓死で数万人死んだとか、兵隊には鉄砲さえ支給されなかったとか、参謀ですらバカな大将の命令を聞かなかったとか、ちゃんと書いとけよ。
戦争の年表展示における、「日本は和平の道を探っていたのに、アメリカはまったく応じなかった」という説明文にはため息が出た。イギリス大使だった吉田茂の単独外交(政府の承認を得てない独断外交)が、「和平の道を探っていた日本」の代表例になっちまっている。本土決戦までやるつもりだったろ、軍部(=当時の日本政府)は。むろん、それに関する説明はまったくない。
特攻隊の遺影がたくさん並べられ、特攻兵器「桜花」や「回天」も陳列されていた。
特攻で死んでいった人たちの冥福は祈りたいし、死者を鞭打つようなことは言いたくないが、特攻隊が美しいとはやっぱり思えなかった。バカな戦争指導者たちの立てた愚かな作戦で散っていった若き命。かわいそうだなあ、とは心の底から思うけれど、それだけである。若者に特攻を強要(と、言っていいと思う)した戦争の親玉たちのバカさ加減にどうしても思い至ってしまうから、それが美しい行いだとはとうてい思えないのである。
私は、日本人の死生観・宗教観から言っても、靖国神社には天皇と首相がそろって参拝すべきだと思っている。ただし、A級戦犯合祀、ありゃまずい。なんとかすべきだ。あれをなんとかしないうちは、国益上、参拝は控えた方がいい、とも思っている。
去年だったか、当時、総理大臣だった長州出身のA級戦犯の孫が、「東京裁判は正しくない」みたいなことを言って物議をかもしたことがあった。私は、これには全面的に同意する。いかにも、東京裁判は正しくない。戦勝国が勝ったことを傘に着て、好き勝手に裁いた不公平な裁判だと思う。
でも、A級戦犯の連中の「罪」はそれでチャラになるわけじゃない。東條英機はやっぱり罪人でなければならない。日本人による裁判をやっても、結果は同じ、絞首刑にしかならないだろう。あいつの出した「戦陣訓」でどれだけの人が死んだかを考えれば、切腹ですら甘い。国賊と断じてもいいと思う。実際、ドイツではヒトラーをそういう扱いにしている。
話がそれた。言いたいことはそれじゃないんだ。
われわれ戦争を知らない世代が戦争を知るための施設が、あの遊就館しかないというのは、戦後日本の大きな過ちではなかろうか。
戦後教育は、反戦平和を叫ぶあまり、過去の戦争をタブーにしてしまい、「戦争とはなんぞや?」をきちんと分析する機会を与えなかった。
そのせいで、かえってああいう戦争を美化するがごとき偏った急進的な施設が、唯一の戦争資料館になってしまうという、本末転倒が行われてしまっている。これは由々しきことじゃないか?
戦争博物館をつくるべきなのだ、国費で!
遊就館は、あの戦争を美化しすぎている。極東の島国が世界を相手に戦争をやった、そりゃ立派かもしれんが、その反対の暗黒面――帝都空襲で東京がどんだけズタボロになったかとか、原爆投下に際してアメリカが何を考えていたかとか、戦争のせいで国民生活がどれほど窮乏にさらされたかとか、そういう面がまったく欠落してしまっている。あれが唯一の戦争資料館というのは、どう考えたってまずい。
かといって、われわれ戦後生まれが学校で教えられてきたように、戦争の悲惨ばかり繰り延べるのはどうかと思うのだ。誇れるところは、誇ったっていい。ゼロ戦がいかに優れた戦闘機だったかとか、第二次大戦は日露戦争とちがって、日本軍の兵器はすべて国産品だったとか、ちゃんと誇ったらいい。ヘンな精神論なんかより、科学力・技術力に優れていたんだ、というアピールの方が、ずっと説得力があるだろう。また、戦争とは国際政治の延長なんだから、そこんとこもキッチリ紹介する必要がある。当時の日本の政治家がテロにビビってなんにもできなかったことや、ヤクザみたいな連中がイケイケドンドンで考えなしに中国を攻めたせいで、アメリカとことを構えざるを得なかったことも含めて。
そんな戦争博物館が絶対に必要なのだ。ヨーロッパには沢山あるじゃないか。なんで日本にはできないんだ?
グリーンピアつくるカネとヒマがあったら、そういう施設をつくれば良かったのである。
いや、今からでも遅くない。あのムダにでかい東京都庁の中にでも、戦争博物館をつくればいい。東京空襲を3Dジオラマにして見せればいいじゃないか。修学旅行の生徒を呼べば、観光収入にもつながるぞ。どうですかね、石原さん。
今まで、行ったことがなかった。はじめて行ったのである。
遊就館はバリバリの皇国史観による陳列が行われていると聞いていたのだが、思っていたよりずっとマトモだったので少々拍子抜けした。もっとすごいのを想像していたのだ。
むろん、首をかしげたくなる展示はたくさんあった。見ながらけっこうツッコミ入れてたから、やっぱり偏っていた、というべきなんだろうな。
日露戦争を扱った映像では、大本営発表もかくやと思われるほどに、日本の(ナレーターは「我が国の」と語っていた)戦勝をはなばなしく喧伝していた。
乃木大将の旅順攻撃がいかに無謀な作戦だったかとか、日本海海戦で連合艦隊がバルチック艦隊に勝てたのはいくつかの幸福な偶然(いい言い方をすれば、「読み」が当たった)に支えられていたことなど、大日本帝国の戦意昂揚に役立たないような情報は一切、語られない。日露戦争で日本が疲弊しきっていたことさえ、ひとことの説明もない。あの調子じゃ日比谷焼き討ち事件は再発しちゃうよ。
大東亜戦争は日露戦争より戦争指導者がずっとアンポンタンになっているから、ツッコミどころはたくさんあるだろうに、やはり一切述べられていない。
あの悪名高きインパール作戦ですら、「退却を余儀なくされた」としか語られてないのだ。戦死じゃなくて餓死で数万人死んだとか、兵隊には鉄砲さえ支給されなかったとか、参謀ですらバカな大将の命令を聞かなかったとか、ちゃんと書いとけよ。
戦争の年表展示における、「日本は和平の道を探っていたのに、アメリカはまったく応じなかった」という説明文にはため息が出た。イギリス大使だった吉田茂の単独外交(政府の承認を得てない独断外交)が、「和平の道を探っていた日本」の代表例になっちまっている。本土決戦までやるつもりだったろ、軍部(=当時の日本政府)は。むろん、それに関する説明はまったくない。
特攻隊の遺影がたくさん並べられ、特攻兵器「桜花」や「回天」も陳列されていた。
特攻で死んでいった人たちの冥福は祈りたいし、死者を鞭打つようなことは言いたくないが、特攻隊が美しいとはやっぱり思えなかった。バカな戦争指導者たちの立てた愚かな作戦で散っていった若き命。かわいそうだなあ、とは心の底から思うけれど、それだけである。若者に特攻を強要(と、言っていいと思う)した戦争の親玉たちのバカさ加減にどうしても思い至ってしまうから、それが美しい行いだとはとうてい思えないのである。
私は、日本人の死生観・宗教観から言っても、靖国神社には天皇と首相がそろって参拝すべきだと思っている。ただし、A級戦犯合祀、ありゃまずい。なんとかすべきだ。あれをなんとかしないうちは、国益上、参拝は控えた方がいい、とも思っている。
去年だったか、当時、総理大臣だった長州出身のA級戦犯の孫が、「東京裁判は正しくない」みたいなことを言って物議をかもしたことがあった。私は、これには全面的に同意する。いかにも、東京裁判は正しくない。戦勝国が勝ったことを傘に着て、好き勝手に裁いた不公平な裁判だと思う。
でも、A級戦犯の連中の「罪」はそれでチャラになるわけじゃない。東條英機はやっぱり罪人でなければならない。日本人による裁判をやっても、結果は同じ、絞首刑にしかならないだろう。あいつの出した「戦陣訓」でどれだけの人が死んだかを考えれば、切腹ですら甘い。国賊と断じてもいいと思う。実際、ドイツではヒトラーをそういう扱いにしている。
話がそれた。言いたいことはそれじゃないんだ。
われわれ戦争を知らない世代が戦争を知るための施設が、あの遊就館しかないというのは、戦後日本の大きな過ちではなかろうか。
戦後教育は、反戦平和を叫ぶあまり、過去の戦争をタブーにしてしまい、「戦争とはなんぞや?」をきちんと分析する機会を与えなかった。
そのせいで、かえってああいう戦争を美化するがごとき偏った急進的な施設が、唯一の戦争資料館になってしまうという、本末転倒が行われてしまっている。これは由々しきことじゃないか?
戦争博物館をつくるべきなのだ、国費で!
遊就館は、あの戦争を美化しすぎている。極東の島国が世界を相手に戦争をやった、そりゃ立派かもしれんが、その反対の暗黒面――帝都空襲で東京がどんだけズタボロになったかとか、原爆投下に際してアメリカが何を考えていたかとか、戦争のせいで国民生活がどれほど窮乏にさらされたかとか、そういう面がまったく欠落してしまっている。あれが唯一の戦争資料館というのは、どう考えたってまずい。
かといって、われわれ戦後生まれが学校で教えられてきたように、戦争の悲惨ばかり繰り延べるのはどうかと思うのだ。誇れるところは、誇ったっていい。ゼロ戦がいかに優れた戦闘機だったかとか、第二次大戦は日露戦争とちがって、日本軍の兵器はすべて国産品だったとか、ちゃんと誇ったらいい。ヘンな精神論なんかより、科学力・技術力に優れていたんだ、というアピールの方が、ずっと説得力があるだろう。また、戦争とは国際政治の延長なんだから、そこんとこもキッチリ紹介する必要がある。当時の日本の政治家がテロにビビってなんにもできなかったことや、ヤクザみたいな連中がイケイケドンドンで考えなしに中国を攻めたせいで、アメリカとことを構えざるを得なかったことも含めて。
そんな戦争博物館が絶対に必要なのだ。ヨーロッパには沢山あるじゃないか。なんで日本にはできないんだ?
グリーンピアつくるカネとヒマがあったら、そういう施設をつくれば良かったのである。
いや、今からでも遅くない。あのムダにでかい東京都庁の中にでも、戦争博物館をつくればいい。東京空襲を3Dジオラマにして見せればいいじゃないか。修学旅行の生徒を呼べば、観光収入にもつながるぞ。どうですかね、石原さん。
2007年4月10日
謎の人、石原莞爾

仕事で多少の必要もあり、また個人的興味もあって石原莞爾について調べていたら、(すくなくとも私にとっては)驚くべき記述にぶつかった。
戦後の軍事裁判で石原は、次のように発言したといわれている。
『裁判長は、石原に質問した。「訊問の前に何か言うことはないか」
石原は答えた。「ある。不思議にたえないことがある。満州事変の中心はすべて自分である。事変終末の錦州爆撃にしても、軍の満州国立案者にしても皆自分である。それなのに自分を、戦犯として連行しないのは腑に落ちない。」』
これって、後世の捏造で、実際には石原は戦犯容疑がかからないよう、あれこれ工作していたというのだ。
http://homepage1.nifty.com/SENSHI/study/isihara-1.htm
これだけ資料を列挙して反証をあげているのだから、たぶん本当に捏造なのだろう。
石原莞爾はすごい人である。満州事変を立案し、成功させた不世出の軍略家であり、核抑止力による冷戦の到来を核爆弾の製造がはじまる前に言い当てた予言者的資質も持っていた。さらに、バリバリ右翼の法華団体「国柱会」の狂信者でもあった(これは宮沢賢治も同様である)。大東亜戦争はこの人がはじめたと言っても過言ではない。
それゆえ、こうした伝説が生まれたということなのだろう。石原という人は、伝説のよく似合う人だ。
ただ、未だに腑に落ちないことがひとつ。
石原はなぜ、満州事変を起こしたのだろう? 満州事変がなければ、日本が戦争に突入することもなかったんじゃないか。そのくせ、石原はその後中国戦線不拡大を唱え東条英機と対立、予備役という閑職に追いやられたりもしている。自分で火をつけておいて、後で火消しに回っているわけだ。そのへんも、よくわからない。あのきわめて論理的かつ精緻な理論『最終戦争論』『戦争史大観』の著者の行動が、なんでこんなに支離滅裂なのだ?
まあたぶん、いろんな本を読んだりしていくうちに、なるほど、と得心することもあるのだろう。でも、今のところ私にとって、石原莞爾は謎の人である。
最後にトリヴィアをひとつ。指揮者の小澤征爾の名前は、板垣征四郎と石原莞爾からとられたもんだそうな。小澤のお父さんはこの2人に心酔していたらしい。やはり、英雄だったってことだよなあ。
2007年4月8日
ドキュメント 謎の出版社「成瀬書房」を追え!
Books.or.jpというサイトがあります。
社団法人・日本書籍出版協会によって運営されるサイトで、現在、書店で入手可能な書籍を検索できるようになっています。なにやら天下りの匂いがプンプン漂ってきますが、それを批判することが本稿の目的ではないのでここでは置くことにいたしましょう。
現在でこそ、大書店やAmazonなどの通販会社のサイトが充実してきましたから、その利便性が伝わってきませんが、インターネット黎明期にはずいぶんお世話になったものです。
先日、ここである作家の本を検索いたしました。
検索結果がこれです。
この検索結果をよく見ると、「成瀬書房」なる出版社があることがわかります。さらによく見ると、成瀬書房は30,582円とか、べらぼうに高い本を出版していることがうかがえます。
森敦の『月山』は芥川賞受賞作ですが、多くの芥川賞作品がそうであるように、決して長大な作品ではありません。
上の検索結果にも出ていますが、文藝春秋社から文庫が出ています。これが、他に7作品を収録して、定価は580円です。平素から文庫に親しんでいる方ならば、この値段の文庫がどのくらいのページ数かはだいたい、わかってもらえるのではないでしょうか。
いったい、3万円以上の本とはどのような豪華本なのか。あるいは目の不自由な方向けの点字の本とか、そういった特別な加工のほどこされた本なのかもしれない、とも思ったのですが、そうした本にしては、少々値段が張りすぎるように思いました。
試みに「成瀬書房」でググってみましたが、同社のサイトは検索されません。どうやら、インターネットでの宣伝活動はしていない会社のようです。
どんな会社なのか、どんな本を出しているのか、さっぱり手がかりが得られないので、ジュンク堂書店のサイトで検索してみることにしました。ジュンク堂は、池袋をターミナルにして生活する私のような人間にとっては、もっとも利用頻度の多い大書店であります。
その検索結果がこれ。
驚いたことに、ジュンク堂のような大書店でさえ、すべての本が「在庫無し 現在この商品はご注文いただけません」という扱いになっています。同じことを紀伊国屋書店のサイトでもやってみましたが、結果は同じでした。
ようやく見つけることができた小さな手がかりがこれ。
福岡女子大学付属図書館の資料展パンフレットを、pdf形式で公開したものです。成瀬書房から刊行された丹羽文雄の『鮎』を、こう解説しています。少々長いですが引用しましょう。
●(8)丹羽文雄『鮎』(成瀬書房、特別愛蔵本、1973年、85000円)
対照の妙を考えて、同じ丹羽の『鮎』の大型の豪華本をもう一冊展示する。
1970年代、80年代を中心に特異な限定版を多く世に送った成瀬書房が刊行したもの。成瀬書房は「署名入り限定版文学全集」を意図し、200部前後、20000円前後の限定本を約80種刊行している。部数の多さや、求めやすい価格など、これらはいわば限定版の普及版とも言うべきものである。成瀬書房は、更にこの中から10数種を、大型の「特別愛蔵本」として別途刊行している。こちらは11部から30部程度、価格も35万、40万というものまである。本書は「特別愛蔵本」の第一冊目を飾るもの。永田一脩が岐阜県馬瀬川で釣った鮎の魚拓をそのまま表装したもの。見返しに金布目和紙、三方金は22金を使用という贅沢な作りである。二重箱入り、内箱は会津産桐箱、外箱蓋裏に鮎の郵便切手と限定番号を記した小紙片を貼付。市販限定30部のうち第21番本。
どうやら、著者のサイン入り豪華本、ということのようです。それが85000円。装丁も相当豪華なんだろうな、と思わせますが、驚くべきは、もっと豪華な本があるということ。「金布目和紙、三方金は22金を使用」して35万~40万円。どんなものだかハッキリとはわかりませんが、「金」という字が3回も使用されていることから考えても、相当豪華な本であるといえるでしょう。おそらくは、本そのものにもゴールドと同じ価値があるような。
『鮎』という小説だから鮎の魚拓をそのままデザインに使っているとありますが、上記の『月山』ならどんなデザインを使うんでしょうか。有名画家が描いた月山の絵とか?
いずれにせよ、豪華本を出版している出版社だということはわかりました。値段と装丁、発行部数から考えて、受注生産であることも想像がつきます。
でも、まだ謎が残っています。
私は本にたいするフェティシズムは一切持っていない人間なので、「絶対にあり得ない」と断言できますが、かりに私が、成瀬書房刊の『月山』30,582円を購入したいと思ったとします。
いったい、どこで買えばいいのでしょう? 大書店では「現在この商品はご注文いただけません」だし、なおかつネットで受注を受けつけているわけでもない。
自分でも暇なことやってんなと思いつつ、104で問い合わせもしてみましたが、「成瀬書房」で届けはないそうです。つまり、電話でのアクセスもできないのです!
上記の福岡女子大学のパンフには、「1970年代、80年代を中心に特異な限定版を多く世に送った」とありますから、現在は存在しない、高度経済成長を背景とした成金向け出版社である、と考えることは可能です。ですが、だとすると矛盾が出てきます。
「現在入手可能な書籍を収録する書籍検索サイト」Books.or.jpに、なぜ堂々と掲載されているのか。上記の検索結果を見るとわかりますが、成瀬書房の本はいずれも80年代に刊行されており、Books.or.jpのサイトの方がずっと新しいのです。データのデジタル化に際してチェックしてるものと思いますし、もし消去忘れだとすれば、「社団法人 日本書籍出版協会」の職務怠慢だということになります。オレ様が身を削って払った税金から補助金出てんだろ、カネ返せ、てな話にもなるでしょう。
「日本書籍出版協会」に問い合わせてみようかと思いましたが、なんとなく自分がタチの悪いクレーマーになりそうなので、やめておきました。気分が乗ったらやるかもしれませんが。
謎の出版社「成瀬書房」。その正体に関して情報をお持ちの方がいらっしゃいましたら、是非ご一報を。
社団法人・日本書籍出版協会によって運営されるサイトで、現在、書店で入手可能な書籍を検索できるようになっています。なにやら天下りの匂いがプンプン漂ってきますが、それを批判することが本稿の目的ではないのでここでは置くことにいたしましょう。
現在でこそ、大書店やAmazonなどの通販会社のサイトが充実してきましたから、その利便性が伝わってきませんが、インターネット黎明期にはずいぶんお世話になったものです。
先日、ここである作家の本を検索いたしました。
検索結果がこれです。
この検索結果をよく見ると、「成瀬書房」なる出版社があることがわかります。さらによく見ると、成瀬書房は30,582円とか、べらぼうに高い本を出版していることがうかがえます。
森敦の『月山』は芥川賞受賞作ですが、多くの芥川賞作品がそうであるように、決して長大な作品ではありません。
上の検索結果にも出ていますが、文藝春秋社から文庫が出ています。これが、他に7作品を収録して、定価は580円です。平素から文庫に親しんでいる方ならば、この値段の文庫がどのくらいのページ数かはだいたい、わかってもらえるのではないでしょうか。
いったい、3万円以上の本とはどのような豪華本なのか。あるいは目の不自由な方向けの点字の本とか、そういった特別な加工のほどこされた本なのかもしれない、とも思ったのですが、そうした本にしては、少々値段が張りすぎるように思いました。
試みに「成瀬書房」でググってみましたが、同社のサイトは検索されません。どうやら、インターネットでの宣伝活動はしていない会社のようです。
どんな会社なのか、どんな本を出しているのか、さっぱり手がかりが得られないので、ジュンク堂書店のサイトで検索してみることにしました。ジュンク堂は、池袋をターミナルにして生活する私のような人間にとっては、もっとも利用頻度の多い大書店であります。
その検索結果がこれ。
驚いたことに、ジュンク堂のような大書店でさえ、すべての本が「在庫無し 現在この商品はご注文いただけません」という扱いになっています。同じことを紀伊国屋書店のサイトでもやってみましたが、結果は同じでした。
ようやく見つけることができた小さな手がかりがこれ。
福岡女子大学付属図書館の資料展パンフレットを、pdf形式で公開したものです。成瀬書房から刊行された丹羽文雄の『鮎』を、こう解説しています。少々長いですが引用しましょう。
●(8)丹羽文雄『鮎』(成瀬書房、特別愛蔵本、1973年、85000円)
対照の妙を考えて、同じ丹羽の『鮎』の大型の豪華本をもう一冊展示する。
1970年代、80年代を中心に特異な限定版を多く世に送った成瀬書房が刊行したもの。成瀬書房は「署名入り限定版文学全集」を意図し、200部前後、20000円前後の限定本を約80種刊行している。部数の多さや、求めやすい価格など、これらはいわば限定版の普及版とも言うべきものである。成瀬書房は、更にこの中から10数種を、大型の「特別愛蔵本」として別途刊行している。こちらは11部から30部程度、価格も35万、40万というものまである。本書は「特別愛蔵本」の第一冊目を飾るもの。永田一脩が岐阜県馬瀬川で釣った鮎の魚拓をそのまま表装したもの。見返しに金布目和紙、三方金は22金を使用という贅沢な作りである。二重箱入り、内箱は会津産桐箱、外箱蓋裏に鮎の郵便切手と限定番号を記した小紙片を貼付。市販限定30部のうち第21番本。
どうやら、著者のサイン入り豪華本、ということのようです。それが85000円。装丁も相当豪華なんだろうな、と思わせますが、驚くべきは、もっと豪華な本があるということ。「金布目和紙、三方金は22金を使用」して35万~40万円。どんなものだかハッキリとはわかりませんが、「金」という字が3回も使用されていることから考えても、相当豪華な本であるといえるでしょう。おそらくは、本そのものにもゴールドと同じ価値があるような。
『鮎』という小説だから鮎の魚拓をそのままデザインに使っているとありますが、上記の『月山』ならどんなデザインを使うんでしょうか。有名画家が描いた月山の絵とか?
いずれにせよ、豪華本を出版している出版社だということはわかりました。値段と装丁、発行部数から考えて、受注生産であることも想像がつきます。
でも、まだ謎が残っています。
私は本にたいするフェティシズムは一切持っていない人間なので、「絶対にあり得ない」と断言できますが、かりに私が、成瀬書房刊の『月山』30,582円を購入したいと思ったとします。
いったい、どこで買えばいいのでしょう? 大書店では「現在この商品はご注文いただけません」だし、なおかつネットで受注を受けつけているわけでもない。
自分でも暇なことやってんなと思いつつ、104で問い合わせもしてみましたが、「成瀬書房」で届けはないそうです。つまり、電話でのアクセスもできないのです!
上記の福岡女子大学のパンフには、「1970年代、80年代を中心に特異な限定版を多く世に送った」とありますから、現在は存在しない、高度経済成長を背景とした成金向け出版社である、と考えることは可能です。ですが、だとすると矛盾が出てきます。
「現在入手可能な書籍を収録する書籍検索サイト」Books.or.jpに、なぜ堂々と掲載されているのか。上記の検索結果を見るとわかりますが、成瀬書房の本はいずれも80年代に刊行されており、Books.or.jpのサイトの方がずっと新しいのです。データのデジタル化に際してチェックしてるものと思いますし、もし消去忘れだとすれば、「社団法人 日本書籍出版協会」の職務怠慢だということになります。オレ様が身を削って払った税金から補助金出てんだろ、カネ返せ、てな話にもなるでしょう。
「日本書籍出版協会」に問い合わせてみようかと思いましたが、なんとなく自分がタチの悪いクレーマーになりそうなので、やめておきました。気分が乗ったらやるかもしれませんが。
謎の出版社「成瀬書房」。その正体に関して情報をお持ちの方がいらっしゃいましたら、是非ご一報を。
2007年1月14日
コナン・ドイルの妖精写真
調べ物をしていたら、こんな写真を見つけた。わりと有名な写真だから、知ってる人も多いかもしれない。

「コティングリーの妖精写真」と呼ばれる写真で、1916年、イギリスはブラッドフォード近くのコティングリー村に住む幼い女の子が撮影したものである。
こうしたものに目の肥えた我々は、この写真がチャチな捏造だとすぐさま見抜くことができる。じっくり調査するまでもなく、見るからにニセモノではないか。
ところが、かのシャーロック・ホームズの生みの親、サー・アーサー・コナン・ドイルがこれを妖精実在の根拠として大きく取り上げたことから、この写真はかなり長期にわたってイギリスのモノ好きたちの間で論議の的になったという。
詳細はここに譲るが、面白い話だと思う。
20世紀初頭の人々にとっていかに写真が新しいメディアであったかとか、コナン・ドイルのような一流の文化人の発言がいかに影響力を持っていたかとか、いろいろ興味深いことも多いけれど、もっとも興味を惹くのは、コナン・ドイルという人の妄想力のたくましさである。
晩年のドイルは心霊研究に没頭していたというが、これをホンモノだと信じさせたのは、あのシャーロック・ホームズを生み出したイマジネーションと同じものなのだ。

「コティングリーの妖精写真」と呼ばれる写真で、1916年、イギリスはブラッドフォード近くのコティングリー村に住む幼い女の子が撮影したものである。
こうしたものに目の肥えた我々は、この写真がチャチな捏造だとすぐさま見抜くことができる。じっくり調査するまでもなく、見るからにニセモノではないか。
ところが、かのシャーロック・ホームズの生みの親、サー・アーサー・コナン・ドイルがこれを妖精実在の根拠として大きく取り上げたことから、この写真はかなり長期にわたってイギリスのモノ好きたちの間で論議の的になったという。
詳細はここに譲るが、面白い話だと思う。
20世紀初頭の人々にとっていかに写真が新しいメディアであったかとか、コナン・ドイルのような一流の文化人の発言がいかに影響力を持っていたかとか、いろいろ興味深いことも多いけれど、もっとも興味を惹くのは、コナン・ドイルという人の妄想力のたくましさである。
晩年のドイルは心霊研究に没頭していたというが、これをホンモノだと信じさせたのは、あのシャーロック・ホームズを生み出したイマジネーションと同じものなのだ。
2006年10月20日
仏像をみる(円空と木喰)
東京国立博物館で「特別展 仏像」を見てきた。
もともと、仏像は好きなのだけど、今回見逃したくないと思ったのは、「宝誌和尚立像」の展示があったからである。

宝誌和尚というのは、中国南北朝時代の実在の僧である。
宝誌さんは、存命時からたいそう徳が高いと評判だったそうだ。それゆえ、梁の武帝は彼の肖像を残しておこうと思いたち、画家に命じて肖像を描かせようとした。ところが、画家が筆をもったとたん、和尚の顔は裂け、十一面観音の顔が現れた。観音の顔は自在に変化したので、画家はついに和尚の肖像を描くことができなかった――という伝説をもっている。
「宝誌和尚立像」は、まさにその「顔面が裂けて観音さまが顔を出した」様子をそのまんま彫刻にした変わり種で、「顔の中に顔がある」おかしな像である。はじめて写真で見たときは、その異様な姿にぎょっとしたものだ。そのとき以来、一度ホンモノを見てみたい、と思っていたのである。
でも、期待しすぎたのかな。ホンモノは「なんだこんなもんか」であった。この手の像は、彫刻云々よりもギミックが面白いわけで、ギミックのネタが割れてしまうと、興醒めしてしまうものなのかもしれない。
むしろ面白かったのは、円空と木喰の制作になる像であった。
円空と木喰は、ともに江戸時代に諸国を行脚し、無数ともいえる仏像彫刻を残したことで知られている。円空が江戸時代前期、木喰は中期の人であるから、時代は若干、ずれているが、西は九州、東は開拓前の北海道にまで足を運び、あちこちに数多くの彫刻を残した点で共通しており、セットで語られることも多い。
私は博物館が好きで、地方に行って時間ができたりするとたいがい博物館に顔を出すのであるが、この二人がつくった仏像、わけても円空仏に出会うことはきわめて多い。
円空という人は生涯に12万体の仏像をつくることを志し、それをみごとに成し遂げたと言われており、現存するものも5千体以上あるとか。道理で、あちこちで出会うわけである。しょっちゅう「新発見された」とか言ってるから、農家の納屋とかに転がっている円空仏はまだまだあるだろう(むろん、たきぎにして燃やされたり、処分されたりした円空仏はもっともっと多いわけだが)。
そんなわけだから、円空仏なんざまるで珍しくないのだけれども、木喰と並べて展示されると、両者のちがいがよくわかって面白かった。
円空の目的は、とにかく「数をつくる」ことだった。なにしろ12万体つくる、という誓願を立てたのである。これをこなすためには、「うまくつくろう」とか、「丁寧につくろう」とか、考えていられない。そのへんに転がってる木っ端を使って、とにかく量産しなければならないのである。それが彼にとっての彫刻であり、仏像制作だったわけだ。
今回の展示で私の目をひいた円空仏は、30センチぐらいの不動明王像である。
明王というのは、おっかない顔をして、背中に炎を背負った仏さまであるが、その炎の部分が、まったく手をくわえていない自然の木をそのまま使って表現されている。悪い言い方をすれば、横着してサボってるのである。

だが、これがいい。そのへんに転がってる木に仏の姿を見る円空の異様な感性が伝わってくる。たぶん円空は、「××仏を彫ろう」とあらかじめ考えて彫刻にとりかかったのではないのだろう。材料となる木の声を聞き、その木がどんな仏になりたいか、もっと言えば「木がどんな仏を宿しているか」が、モチーフを決定する決め手となっていたのだ。
一方、木喰の方は、あらかじめ「つくりたいもの」があって、そこから素材を選定し、制作にとりかかっていたように見える。木喰は円空のように「12万体」などという大それた目標を設定していたわけではないから、彫刻制作に当たって急いでいない。像に余裕があるのである。
木喰仏の特徴とされる柔和な表情は、ある程度、丁寧な彫り込みを必要とする。それゆえ、円空のそれのように、なにかに追い詰められたような緊張感は表現されないのだ。
とはいえ、だから木喰作の像は面白くない、ということではない。木喰は木喰ですごく面白かった。私が気に入ったのは、「釈迦如来および迦葉尊者・阿難陀尊者像」という、釈迦とその弟子を彫ったものだった。中でも、釈迦如来像の表現には、思わず「ほう」と声を出してしまった。(写真は木喰作釈迦如来像。実際の展示とは別の像です)

仏像は本来、彫刻家が自由につくっていいものではない。仏像には「儀軌」と呼ばれる細かなキマリがあって、それを守ってつくられなければならないのだ。
たとえば、如来像の頭は、頭の上にもうひとつ頭があるような、二段構えになっていなければならない。髪型は例のボツボツ頭でなければならない。あれはどちらも「仏の三十二相」という如来の特徴であって、あれがなければ如来ではないのである。他にも、手に水かきをつけなきゃならないとか、腕は足より長くなきゃいけないとか、如来にはおよそ人間ばなれした特徴がたくさんある。それを守ってつくるのが「正しい如来像」なのだ。
円空も木喰も、如来像をつくっている。だが、いずれも儀軌を大きく逸脱した像になっている。彼らは所詮、そのへんに落ちてる木を材料に、庶民のための仏像を彫っていた彫刻家だから、儀軌をきちんと守ることは不可能だったのだろう。
ことに円空は、儀軌などハナっから存在しないかのような、アグレッシブな仏像を量産している。円空が知識人だったとは思えないし、先生についてちゃんとした彫刻修行を積んだわけでもないだろうから、彼は儀軌を知らなかった可能性が高い、と私は思う。
一方、木喰の方は、儀軌を逸脱はするのだけれど、「一応、ある程度は気にしておこう」みたいな意識があったようだ。それが如実に表現されたのが、私がつい「ほう」と声を出してしまった釈迦如来像である。
前述したように、釈迦如来の頭は、例のボツボツ頭でなければならない、というキマリがある。じつはあのボツボツ、髪の毛が規則正しくまとまって、右巻きに渦を巻いたさまを表現しているのだ(「螺髪」と呼ばれる)。
木喰の釈迦如来像の頭は、きちんと右巻きに渦を巻いていた。ところが、ボツボツ頭にはなっていないのである。渦の数が極端にすくないために、「ボツボツ」とは言えないものになってしまっているのだ。
だが、むしろそのことが、あの人間ばなれした頭も、じつは「ヘアスタイルの一種」であることを表現していた。一般の如来像の頭のボツボツは、それがヘアスタイルであることを了解するために一定の時間を要するけれど、木喰のそれは「あ、髪の毛なんだな」と即座にわかる造形なのである。
私は仏像好きのひとりとして、仏像はけっこうな数見ているほうだと思っているけれど、あんな頭の如来像ははじめて見た。
たぶん、木喰という人は、一種のアーティスト根性みたいなものを持っていた人だったのだろう。像から「俺がつくった仏像は他とはちょっとちがうぜ」みたいな意識が感じられる。像にハッキリした記名性があるのだ。また、デフォルメされた3Dキャラクターみたいな姿をしている木喰仏はかわいいし、女子どもに受けが良かったにちがいない。言ってみれば、作り手と受け手の間にコミュニケーションが成立する像なのである。
円空だと、そうはいかない。現在でこそ円空仏は凄みのある芸術として評価されているけれども、当時はたぶん、「ヘタクソな造形」と認識されていたはずだ。円空自身も、自分がつくった仏像がどのように遇されるかは考えていなくて、ただひたすらに彫り続けること、それだけを考えていたのだろう。円空にとって彫刻とは芸術ではなく、宗教的な高みに登るための修行だったのである。だから、受け手のことはまったく無視されているのだ。
こうした円空と木喰の相違には、ひょっとしたら時代性もあるのではないかな、と思った。
俳諧だの歌舞伎だの草双紙だの、庶民芸術が発達した江戸時代中期だからこそ、木喰みたいな彫刻家も出てきたんじゃないだろうか。裏づけはまるでないけど、そんな気がする。
いちばん良かった仏像が円空と木喰だったあたり、今回の「特別展 仏像」は、あまり大した像は展示されてなかったように思えた。むしろ、久々に見た東京国立博物館の常設展示の方が、優れた像が多かったように思う。
私が言うことじゃないけれど、東京国立博物館の常設展示はかなりいいよ。仏像ひとつとっても、ガンダーラからはじまって、中国・朝鮮を経て日本に至り、仏像がどのような変容を経たのか実感できる。他にも、骨まで斬れそうな日本刀がズラリ並んでいたり、気が遠くなるような水墨画がいくつも展示されていたり、飽きることがない。埴輪や土偶のたぐいも充実していて、ひょっとしたら縄文人は宇宙人と交信していたんじゃないか、などというしょうもない想像も頭の中を駆けめぐる。建物も趣があっていい。
その後、国立科学博物館で南方熊楠展と化け物展を見たから、一日潰れてしまった。さすがに終日の立ちんぼはくたびれました。
それにしても、仏像展の土産物、どうして十年一日の絵はがきだの、色紙だの、じじいばばあしか喜ばないようなもんしか置いてないのだろう。円空仏の携帯ストラップがあったら、俺は絶対買うんだけどな。若い客もたくさん来ているんだから、もっと考えればいいのに。
もともと、仏像は好きなのだけど、今回見逃したくないと思ったのは、「宝誌和尚立像」の展示があったからである。

宝誌和尚というのは、中国南北朝時代の実在の僧である。
宝誌さんは、存命時からたいそう徳が高いと評判だったそうだ。それゆえ、梁の武帝は彼の肖像を残しておこうと思いたち、画家に命じて肖像を描かせようとした。ところが、画家が筆をもったとたん、和尚の顔は裂け、十一面観音の顔が現れた。観音の顔は自在に変化したので、画家はついに和尚の肖像を描くことができなかった――という伝説をもっている。
「宝誌和尚立像」は、まさにその「顔面が裂けて観音さまが顔を出した」様子をそのまんま彫刻にした変わり種で、「顔の中に顔がある」おかしな像である。はじめて写真で見たときは、その異様な姿にぎょっとしたものだ。そのとき以来、一度ホンモノを見てみたい、と思っていたのである。
でも、期待しすぎたのかな。ホンモノは「なんだこんなもんか」であった。この手の像は、彫刻云々よりもギミックが面白いわけで、ギミックのネタが割れてしまうと、興醒めしてしまうものなのかもしれない。
むしろ面白かったのは、円空と木喰の制作になる像であった。
円空と木喰は、ともに江戸時代に諸国を行脚し、無数ともいえる仏像彫刻を残したことで知られている。円空が江戸時代前期、木喰は中期の人であるから、時代は若干、ずれているが、西は九州、東は開拓前の北海道にまで足を運び、あちこちに数多くの彫刻を残した点で共通しており、セットで語られることも多い。
私は博物館が好きで、地方に行って時間ができたりするとたいがい博物館に顔を出すのであるが、この二人がつくった仏像、わけても円空仏に出会うことはきわめて多い。
円空という人は生涯に12万体の仏像をつくることを志し、それをみごとに成し遂げたと言われており、現存するものも5千体以上あるとか。道理で、あちこちで出会うわけである。しょっちゅう「新発見された」とか言ってるから、農家の納屋とかに転がっている円空仏はまだまだあるだろう(むろん、たきぎにして燃やされたり、処分されたりした円空仏はもっともっと多いわけだが)。
そんなわけだから、円空仏なんざまるで珍しくないのだけれども、木喰と並べて展示されると、両者のちがいがよくわかって面白かった。
円空の目的は、とにかく「数をつくる」ことだった。なにしろ12万体つくる、という誓願を立てたのである。これをこなすためには、「うまくつくろう」とか、「丁寧につくろう」とか、考えていられない。そのへんに転がってる木っ端を使って、とにかく量産しなければならないのである。それが彼にとっての彫刻であり、仏像制作だったわけだ。
今回の展示で私の目をひいた円空仏は、30センチぐらいの不動明王像である。
明王というのは、おっかない顔をして、背中に炎を背負った仏さまであるが、その炎の部分が、まったく手をくわえていない自然の木をそのまま使って表現されている。悪い言い方をすれば、横着してサボってるのである。

だが、これがいい。そのへんに転がってる木に仏の姿を見る円空の異様な感性が伝わってくる。たぶん円空は、「××仏を彫ろう」とあらかじめ考えて彫刻にとりかかったのではないのだろう。材料となる木の声を聞き、その木がどんな仏になりたいか、もっと言えば「木がどんな仏を宿しているか」が、モチーフを決定する決め手となっていたのだ。
一方、木喰の方は、あらかじめ「つくりたいもの」があって、そこから素材を選定し、制作にとりかかっていたように見える。木喰は円空のように「12万体」などという大それた目標を設定していたわけではないから、彫刻制作に当たって急いでいない。像に余裕があるのである。
木喰仏の特徴とされる柔和な表情は、ある程度、丁寧な彫り込みを必要とする。それゆえ、円空のそれのように、なにかに追い詰められたような緊張感は表現されないのだ。
とはいえ、だから木喰作の像は面白くない、ということではない。木喰は木喰ですごく面白かった。私が気に入ったのは、「釈迦如来および迦葉尊者・阿難陀尊者像」という、釈迦とその弟子を彫ったものだった。中でも、釈迦如来像の表現には、思わず「ほう」と声を出してしまった。(写真は木喰作釈迦如来像。実際の展示とは別の像です)

仏像は本来、彫刻家が自由につくっていいものではない。仏像には「儀軌」と呼ばれる細かなキマリがあって、それを守ってつくられなければならないのだ。
たとえば、如来像の頭は、頭の上にもうひとつ頭があるような、二段構えになっていなければならない。髪型は例のボツボツ頭でなければならない。あれはどちらも「仏の三十二相」という如来の特徴であって、あれがなければ如来ではないのである。他にも、手に水かきをつけなきゃならないとか、腕は足より長くなきゃいけないとか、如来にはおよそ人間ばなれした特徴がたくさんある。それを守ってつくるのが「正しい如来像」なのだ。
円空も木喰も、如来像をつくっている。だが、いずれも儀軌を大きく逸脱した像になっている。彼らは所詮、そのへんに落ちてる木を材料に、庶民のための仏像を彫っていた彫刻家だから、儀軌をきちんと守ることは不可能だったのだろう。
ことに円空は、儀軌などハナっから存在しないかのような、アグレッシブな仏像を量産している。円空が知識人だったとは思えないし、先生についてちゃんとした彫刻修行を積んだわけでもないだろうから、彼は儀軌を知らなかった可能性が高い、と私は思う。
一方、木喰の方は、儀軌を逸脱はするのだけれど、「一応、ある程度は気にしておこう」みたいな意識があったようだ。それが如実に表現されたのが、私がつい「ほう」と声を出してしまった釈迦如来像である。
前述したように、釈迦如来の頭は、例のボツボツ頭でなければならない、というキマリがある。じつはあのボツボツ、髪の毛が規則正しくまとまって、右巻きに渦を巻いたさまを表現しているのだ(「螺髪」と呼ばれる)。
木喰の釈迦如来像の頭は、きちんと右巻きに渦を巻いていた。ところが、ボツボツ頭にはなっていないのである。渦の数が極端にすくないために、「ボツボツ」とは言えないものになってしまっているのだ。
だが、むしろそのことが、あの人間ばなれした頭も、じつは「ヘアスタイルの一種」であることを表現していた。一般の如来像の頭のボツボツは、それがヘアスタイルであることを了解するために一定の時間を要するけれど、木喰のそれは「あ、髪の毛なんだな」と即座にわかる造形なのである。
私は仏像好きのひとりとして、仏像はけっこうな数見ているほうだと思っているけれど、あんな頭の如来像ははじめて見た。
たぶん、木喰という人は、一種のアーティスト根性みたいなものを持っていた人だったのだろう。像から「俺がつくった仏像は他とはちょっとちがうぜ」みたいな意識が感じられる。像にハッキリした記名性があるのだ。また、デフォルメされた3Dキャラクターみたいな姿をしている木喰仏はかわいいし、女子どもに受けが良かったにちがいない。言ってみれば、作り手と受け手の間にコミュニケーションが成立する像なのである。
円空だと、そうはいかない。現在でこそ円空仏は凄みのある芸術として評価されているけれども、当時はたぶん、「ヘタクソな造形」と認識されていたはずだ。円空自身も、自分がつくった仏像がどのように遇されるかは考えていなくて、ただひたすらに彫り続けること、それだけを考えていたのだろう。円空にとって彫刻とは芸術ではなく、宗教的な高みに登るための修行だったのである。だから、受け手のことはまったく無視されているのだ。
こうした円空と木喰の相違には、ひょっとしたら時代性もあるのではないかな、と思った。
俳諧だの歌舞伎だの草双紙だの、庶民芸術が発達した江戸時代中期だからこそ、木喰みたいな彫刻家も出てきたんじゃないだろうか。裏づけはまるでないけど、そんな気がする。
いちばん良かった仏像が円空と木喰だったあたり、今回の「特別展 仏像」は、あまり大した像は展示されてなかったように思えた。むしろ、久々に見た東京国立博物館の常設展示の方が、優れた像が多かったように思う。
私が言うことじゃないけれど、東京国立博物館の常設展示はかなりいいよ。仏像ひとつとっても、ガンダーラからはじまって、中国・朝鮮を経て日本に至り、仏像がどのような変容を経たのか実感できる。他にも、骨まで斬れそうな日本刀がズラリ並んでいたり、気が遠くなるような水墨画がいくつも展示されていたり、飽きることがない。埴輪や土偶のたぐいも充実していて、ひょっとしたら縄文人は宇宙人と交信していたんじゃないか、などというしょうもない想像も頭の中を駆けめぐる。建物も趣があっていい。
その後、国立科学博物館で南方熊楠展と化け物展を見たから、一日潰れてしまった。さすがに終日の立ちんぼはくたびれました。
それにしても、仏像展の土産物、どうして十年一日の絵はがきだの、色紙だの、じじいばばあしか喜ばないようなもんしか置いてないのだろう。円空仏の携帯ストラップがあったら、俺は絶対買うんだけどな。若い客もたくさん来ているんだから、もっと考えればいいのに。
2006年10月6日
ヒガンバナと人の言う

ヒガンバナが好きである。
ヒガンバナはその名のとおり、お彼岸の前後しか咲かない。あいにく、ここのところ雨が多いけれど、ヒガンバナが咲くころは、残暑から解放されて、過ごしやすい日が続く。空気は澄んでいるし、風も乾いている。思わず、空高く馬肥ゆる、などと俗なことをつぶやきたくなる。
そんな季節は、意味もなくそこらへんを散歩するのも案外に楽しいもんである。ふさぎがちな私のご機嫌もすこぶるよろしくなる。おそらくは、そういう季節に咲いている花だから好き、というのもあるのだろう。
ヒガンバナの何が好きって、やはり何かしら、ミスティックなものを感じさせてくれるところだろう。彼岸花、という名前からしてこの世ならぬ世界を連想させるし、別名の曼珠沙華に至っては、字からして怖そうだ。なんでも法華経から取ったものらしいが、そういう名前をつけたくなる何物かが、あの花にはやはり、あるのである。あの毒々しい紅い花には、そういう魅力(あえて魅力といいたい)がある。桜の木の下には、なんてよく言うけれど、ヒガンバナの下に死体が埋まっていてもぜんぜんおかしくないと思う。
ヒガンバナの生態もきわめておもしろい。そこも気に入っている。
ヒガンバナをよく「気持ち悪い」という人がいるけれど、あれが気持ち悪いのは、ド派手な花が咲いているのに、葉が一枚もないからである。細長い茎の上に、毒々しく紅い大きな花がついている。その異常なバランスが、気持ち悪く感じられるのであろう。
ヒガンバナの葉は、花と細長い茎が枯れ落ちてから生えてくる。ニラのできそこないみたいな、目立たない葉である。多くの人は、あの葉を見ても、ヒガンバナとは思わないだろう。だが、この目立たない葉の時代が、ヒガンバナにとって、生産の時代なのだ。やつは、周囲の植物が枯れ落ちる冬になってから葉を出して、せっせと光合成をはじめるのである。
とはいえ、茎は花と一緒に枯れ落ちてしまっているから、光合成によって生産された養分は、成長にはほとんど使用されない。では、養分はいったいどこに行くのか。
地下茎(球根)に貯めこんでいるのである。まわりに草のない冬の間に、やつは養分をしこたまつくって、球根を太らせているわけだ。
冬が終わって春になると、まわりに草が生い茂ってくる。ヒガンバナの葉は地をはうように生える背の低い葉であるから、春の植物たちの、陽光を求めるはげしい競争に、勝てるようにはできていない。したがって、葉は夏になると、枯れ落ちてしまう。ヒガンバナは春から夏にかけて、土の中で眠っているのだ。他の植物たちが大いに生命を謳歌する季節に、やつは眠っているのである。これを「夏眠」と呼ぶことは、つい最近知った。
そして、夏が終わり、秋の声が感じられる季節になると、例の毒々しい紅い花を咲かせるわけである。夏の間は光合成をしてないわけだから、花は前年の冬、球根に貯蔵されたエネルギーを使って咲く。
植物にとって、光合成をすることが生きていることだとするならば、あの花はたしかに「死んでいる時代」に咲く花なのである。その意味で、彼岸花、というネーミングはきわめて科学的だと思う。
さらに面白いのは、ヒガンバナの花は、生殖器ではないということである。
世に「花」と呼ばれ、鑑賞され愛でられているもののほとんどは、生殖器である。花の色彩が美しいのも、いい匂いがするのも、すべては昆虫を呼び寄せて受粉を遂げるための機能なのだ。生物学的に「花」はそのような意味をもっている。
にもかかわらず、ヒガンバナの花は、生殖機能が完全に失われている。よく見るとおしべとめしべらしきものはあるにはあるが、受粉して種子をつくる機能はもっていない。そもそも球根で増えるわけだから、タネをつくる必要はないのだ。
したがって、あの花は生物学的な意味をもたない花なのである。あの毒々しい花は、なんの役割も意味ももたず、ただ咲くためだけに咲く。
「生殖機能をもたない花」「意味をもたない花」という点から考えても、彼岸花、というネーミングはきわめて科学的だと思う。
ヒガンバナの花は毒々しい。その毒々しさは、生殖とは関係のない、こけおどしの毒々しさである。でも、ひょっとしたらあの花には、警戒信号の役割があるのかもしれない。なにしろ、やつは球根に毒をもっているのだ。やつにとっては球根が命だから、モグラなんぞにかじられたらたまらんわけである。そのための毒である。
毒をもつ動物は、カラーリングが派手なやつが多い。毒トカゲだの、毒蝶だののたぐいは、たいがい派手な色をしている。派手な色彩と毒を捕食者にセットで記憶してもらって、身を守るためである。ひょっとしたら、ヒガンバナのあの毒々しさには、そういう意味があるのかもしれない。
しぶといなあ、と思う。そのあたりのしぶとさも、私がヒガンバナを好きな理由のひとつになっている。
ヒガンバナは生殖機能を失っているため、すべての花(株)は遺伝子的に同じ構造をもっている。要は、あんなにたくさんあるのに、ぜんぶ同じ遺伝子を持っているのである。うまく言えないが、これはものすごいことだと思う。空恐ろしい、とさえ思う。あの毒々しい花とセットにすると、戦慄に近いものを覚える。すげえ。
そういう感慨を持たせてくれる花は、ヒガンバナだけである。
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