2008年9月13日

ネット・リテラシー雑感

 さいきんはネット用語がいつのまにか市民権を得たかのようにネット以外のメディアで使われはじめたりするから、ついていくのが大変だ。

 某巨大掲示板とかをしょっちゅう見てる人ならとうに了解済みのことでも、こっちははじめて聞く言葉だったりする。

 ずいぶん前だが、orzというのがわかんなくて、その方面に詳しい友人に聞いた。意味と用法を聞いて、なーるほどねと思った記憶がある。

 今日は「喪」という言葉に出くわした。喪。なんじゃらほい。こうなると、もう気分は盆栽老人である。

 調べて、意味がわかった。ふーんと思った。

 ネットで新しい言葉が生まれるのを否定するつもりはない。
 閉じたコミュニティ(仲のいい友達どうしとか、サークルとか)ではどんなところでも仲間内にしかわからない符丁が使われるものだ。ネットの場合は、それがミョーな形で開かれてるから「仲間内」と「外」の区別があいまいになってしまう。
 さらに、閉じたコミュニティとはちがって、言い出しっぺが誰なのか、皆目見当がつかない、という特徴もある。

 まあ、これはそういうもんなんだから、そういうもんだと受け止めるしかないのである。

 
 ネットの普及によって、多くの人が自分のメディアをもち、語るようになった。情報のほとんどがマスコミから一方的に与えられた旧・世界よりも、おもしろい世界になっているんじゃないか、と個人的にはおもっている。

 たぶん、「文章を書く」ことを習慣にしている人の数も、統計をとれるもんじゃないから本当のところはわからないけれど、増えていると思われる。

 でも、どうなんだろ? 一般の人の「民度」といいますか、知的レベルというのは、反対に下がってるんじゃなかろうか。

 まっとうな校正を経た文章は学校の教科書しか知らず、その教科書はロクに読んでなくて、あとはネットで流通するテキストを読む。たいがいは友人知己のブログやら某巨大掲示板やらに記載された文章を読む。

 そうなると、「まっとうな文章」にふれる機会ってないんだよね。

 まあ、何がまっとうで何がまっとうでないかの区別に関しては定義が必要だし、それを定義づけようとするとややっこしいことになるからしないけれど、ときどき、何が言いたいのかサッパリわからない文に出会ったりすると、そういうことを思う。

 私は仕事がら、「ライター」と称する若い連中の文章を読むこともあるんだけど、あまりのひどさに頭痛がしてくることがある。
 あのね、文章というものは、コミュニケーションに向かってるものなのよ。あなたひとりに理解できたって、他人に理解できなきゃ意味ないの。

 まあ、マスコミ周辺の「ライター」とか「デザイナー」なんて、資格試験も入社試験もなくて、ただ自分で「ライター」とか「デザイナー」とか言えばなれちゃうイージーな職業だから、こういう人は昔からいたんだろうな、とは思うんだけど。

 ひょっとしたら、ネットの影響もあるんじゃなかろうか、とも思うわけです。

 もっとも、これだって調査できるこっちゃないから(どっかの独立行政法人にでもやってもらうほかない)、ほんとのところはわかりませんけど。

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