2009年2月9日

親は知らず、子も知らず(前編)

「ああー、こりゃ親知らずだね」
 予約もなしに突然に訪ねたために、午睡の時間を削られて機嫌を損ねているらしい歯科医は、診察台に横たわり大口を開けた間抜けな私に向かってそう言った。

 左の奥歯に、得体の知れない穴が開いていることに気づいたのは、たしか去年の今頃だったと思う。奥歯なので見ることはできないが、舌でさわると、たしかに歯が欠けている。なるほど、これが虫歯というやつか、と思った。

 私は小学校のとき乳歯を抜きに行って以来、歯医者の世話になったことがない。虫歯になったことがなかったのである。それがちょっとした自慢でもあった。だから、ついに自分の歯が虫歯になったことについては、「ついに人並みになったか」
「ハ・メ・マラの順に使えなくなるらしい。寄る年波には勝てんか」
「もう歯の優良さを自慢できんな」
 など、さまざまな感慨があった。
 すぐに医者にかかっても良かったのだろうけれど、痛みがあるわけじゃなし、しばし経過を見守ることにしたのである。それが1年ほど前の話。

 その後、歯はまるで月が欠けていくように形を変えていった。いつしか、変わりゆく奥歯の形状を舌先でたしかめるのが、癖になっていた。

 今回、とつぜんに歯医者を訪れる決断をしたのは、痛いから、ではない。相変わらず痛みはないのだが、歯の欠けたところがまるで鍾乳洞の内部のようにギザギザに変形し、ところによってはカミソリのような鋭度をもつに至り、舌でふれると舌先が傷つくようになったためである。常に舌上に香辛料を乗せているような痛がゆさをを感じる。

 歯に痛みはないのだから、舌でさわりさえしなければ気になるものでもない。しかし、なにしろ1年間、ずっと舌先で奥歯の欠け具合を確かめてきたのである。さわるなと言われたってさわってしまう。結果、舌先が損傷してしまったのだ。
 とはいえ、舌先でそっとふれる程度であるから、大したことはない。口内のこと、傷ついたとしてもすぐさま治癒する。だから、ほかしておいてもいいのだけれど、ここまで虫歯が進行すると、他の健康な歯にも被害が拡大するかもしれない。それが恐ろしかった。

 舌先の損傷も、虫歯被害の拡大も喜ばしいことではなかった。それで、歯医者にかかることにしたのである。

 なにしろ乳歯を抜いて以来一度も歯医者の世話になってないから、歯医者のシステムがどうなってるかも知らない。歯医者は一般の外来のようにとつぜん訪ねるものではなく、予約を入れて利用するものだということは、今回はじめて知った。とつぜんに訪ねたら、医者は不機嫌そうに診察に応じてくれたのである。

 なにやらものものしい機材の並ぶ診察台に座り、マヌケにも大口を開けて中空を見上げる私の口腔に向かって医者がつぶやいたのが、冒頭のひとことであった。まるで木のうろに向かって秘密をぶちまける人のごとくであった。
「ああー、こりゃ親知らずだね」

(以降、「親は知らず、子も知らず」後編に続く)

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