2008年6月22日

秋葉原殺傷事件を考える <1>

 秋葉原殺傷事件に関しては、ずいぶんいろんなことを考えさせられました。

 犯人である「彼」の携帯サイトへの書き込みも熟読してしまいましたし、現在も報道のひとつひとつに、強い興味をもって接しています。正直、ゲンナリしてしまうことが多いので、精神衛生上よろしくないことはよくわかっているのですが、どうしてもやめることができません。

 どうしてこれほどに強い関心を抱いたかといえば、ひとえに「彼」が、犯行に至るまでの心情を、つぶさに記録し、公開していたためだと思います。

 すこし広い視点をもてば、無差別大量殺人というのは、洋の東西を問わず、頻繁に起こっているものだということを知ることができます。有名なものに、横溝正史の『八つ墓村』のモデルになったといわれる津山三十人殺しや、コロンバインの銃乱射事件があります。

 その視点に立ってみれば、「彼」の犯行はとくに珍しいものではありません。
 だが、「彼」ほどに、犯行動機を世間の目にさらし、犯行に至るまでの自己の心情を執拗に綴った殺人者はいなかった。犯行後に手記を残す殺人者は多いでしょうが、犯行前にそれをやった者は、私の知るかぎりいません。その意味で、「彼」は特別な存在なのです。

 とはいえ、私が自分でもちょっと異様と思えるほどに事件に興味をもってしまったのは、単に「彼」が残した心情吐露がめずらしかったから、だけではなかったと思います。

「彼」が通ったのと同じ道を、かつて自分も通ったことがある。
 そんな気がしたからです。「彼」の書き込みを熟読しながら、そこに綴られている言葉のひとつひとつに身をゆだねているうちに、私はそのことに気づきました。誤解を恐れずに言えば、私が「彼」でもおかしくなかったのです。

 とはいえ、私は過去に「彼」と同じような犯罪を犯したわけではありませんし、犯行を考えたことすらありません。ただ、同じように世をすね、疎外感を感じていたことがあるだけです。
 同じようなココロの動きをしていたはずなのに、「彼」は殺人鬼となり、自分はならなかった。その相違はどこにあるのか。私はずいぶん、そのことを考えました。

 安全に暮らしていくためにも、私たちは「彼」のような人間を二度と世に出さないよう努めていかなければなりません。それが社会人の、大人のつとめです。いったいどうしたら「彼」に犯行を思いとどまらせることができるか、という問いは、私に「どうして自分は殺人鬼にならなかったのか」を考えさせることになりました。

「彼」に犯行をやめさせる方法は、すぐに考えつきました。すごく単純なことなのです。
「彼」はみごとな五七調をもって、こう綴っています。

「彼女がいない、ただこの一点で人生崩壊」

 彼女さえいれば、「彼」は犯行に至らなかったでしょう。だから、「彼」に犯行をやめさせるためには、「彼」に恋人をつくってあげればいいのです。だが、これが難しい。

「彼」に恋人ができないのは、まわりにいる女性が悪いわけではありません。「彼」自身が悪いのです。それも、「彼」の容姿がふるわないためではない。「彼」の写真を見るとわかりますが、顔立ちは悪くなく、むしろ端正なほうだといえるでしょう。どうやら若ハゲみたいですが、こんなもんは隠そうと思えばどうとでもできますし、開き直ってしまえば気になるほどのもんでもないと思います。

「彼」に恋人ができなかったのは、「彼」みずからが可能性を閉ざしていたためです。じつは、私が「同じ道を通ったことがあるなあ」と感じるのも、このあたりのように思うのですが、長くなるので、また日をあらためて綴ることにいたします。

2 件のコメント:

takebow さんのコメント...

ご無沙汰しておりました。この問題にはショックを受けておったのですが、個人的な日常に忙殺されておりました。ネット世界では彼を英雄視する風もあるやに伺っております。また、模倣犯が増えているのも何だかなぁ、という感じです。先日は「埼京線の上野駅で殺人します」という、ありえない条件で書き込むのは犯罪にならないだろう、というあまりに幼稚な輩まで出ている始末。この国はどうなっていくのでしょうか?アメリカのような犯罪が増えていくのか心配です。

1TRA さんのコメント...

takebow師匠、いつもコメントありがとうございます。

彼を英雄視するやつらには腹が立ちます。しかも、匿名で、なんの責任もないところでそういうことを言う。

殺された人はむろんのこと、これから長い禁固人生を送り、おそらくは最後に国家によって殺されるだろう彼にたいしても、すこし想像力を働かせればそんなことは言えなくなるはずなのに。